信者の数でいえば、世界で最も多く信仰されている宗教は約23億人のキリスト教(人類の32%)で、その後に18億人のイスラム教(25%)、11億人のヒンドゥー教(15%)が続く。
ここで取り上げたいのは2位と3位の宗教だ。
イスラム教徒の視点から見ると、ヒンドゥー教との決定的な違いはコレに表れている。
最近、知り合いのバングラデシュ人から、「どこかに連れて行ってほしい」とアーニャみたいに気軽に頼まれたから、静岡県にある『ふじのくに茶の都ミュージアム』へ行くことにした。
彼はイスラム教徒だから、宗教上のタブーに触れないような配慮は必要なんだが、お茶の博物館ならまぁ問題はない。
当日、彼は2人のバングラデシュ人を連れてきて、合計3人のイスラム教徒と一緒に博物館へ向かった。
博物館では世界中の茶葉が展示されていて、それを熱心に見ていた知人が「あった!」と歓喜の声を上げる。
彼はコレを探していたのだ。
ダージリン地方はインドの北東部にあって、そこで生産される紅茶はセイロンのウバ、中国のキーマンとともに世界三大紅茶の一つとして有名。
ファミレスの飲み放題のコーナーには、きっとこの紅茶のパックがある。
彼の実家がダージリンのすぐ近くにあって、子どものころはよくこの紅茶を飲んでいたらしい。
ダージリンティーは世界的に有名だから、きっとこのサンプルがあるに違いないと思ったら、ホントにあった。
だから、彼としてはなつかしさ&うれしさを感じずにはいられない。
ダージリンの茶園で働く労働者(1890年)
バングラデシュは1947年に独立するまで、千年以上前からずっとインドの一部、一つの地方として存在していた。
しかし、インドがイギリスから独立する際、イスラム教徒が多かったバングラデシュはヒンドゥー教徒が支配的なインドから分離し、「東パキスタン」となった。
そんな歴史があるから、インドとバングラデシュはいまは別の国でも、共有する文化や伝統はとても多い。
だから、インド人もバングラデシュ人も、同じ茶葉を使ったミルクティー(チャイ)を日常的に楽しんでいる。
ただし、それを入れる器は違う。
知人によれば、それはバングラデシュとインドを区別するとても大きな違いだ。
インドでは、博物館の展示にあった「クルハド」と呼ばれる素焼きのカップが、チャイやヨーグルトを入れる器としてよく使われる。
インドを旅行中、ヨーグルト屋でこんな光景を見かけた。
客がヨーグルトを食べ終わると、クルハドをポイッと投げ捨てるから、こんなゴミ捨て場みたいなスポットができる。
チャイを飲んだ後、カップを地面にたたき割るのはほかの場所でも見た。
「郷に入っては郷に従え」で、チャイを飲んだ後に「おりゃっ」と投げると、ストレス発散になって予想以上に楽しい。
バングラデシュ人が言うには、インド人はよくこの素焼きのカップを使うけれど、バングラデシュ人がチャイを飲むときは、写真の左にあるようなグラスを使う。
素焼きのカップを使うか、ガラスのグラスを使うか?
これは、インドとバングラデシュを分ける大きな要素になるという。
その理由として、3人のイスラム教徒は次のような話をする。
インドとバングラデシュはたくさんの文化を共有しているが、宗教はまったく違って、これが別の国として独立する原因となった。
ヒンドゥー教の最も重要な考え方にカースト制度があり、これによって人間がさまざまな身分に分けられている。
現在のインド憲法では、カーストによる差別が禁止されているだけで、カースト制度そのものは認めている。
これを廃止することは現実的にムリ。
一方、イスラム教では、すべての人間は神(アッラー)によって創造されたと信じられている。
だから、イスラム教徒は国や民族が違っていてもすべて平等で、同じ神を信じる対等な仲間になる。
インド人が使い捨ての素焼きのカップを使う理由は、別のカーストの人間が飲んだ物に自分の口をつけたくないから。
カースト制度で人間に「ランク」をつけたり、差別をしたりすることは、イスラム教の最も重要な価値観に反しているから、ムスリムには絶対に受け入れられない。
イスラム教徒にとって、ほかのイスラム教徒はブラザーやシスターになるから、誰がコップを使ったかはまったく気にならない。
イスラム教徒の自分たちにとって、最も嫌悪することは、カーストの違いによって人が殺されること。
これはイスラム教の考え方とは真逆の行為になる。
ということで、同じチャイを飲むにしても、素焼きのカップかグラスを使うかには、ヒンドゥー教とイスラム教の重要な価値観や考え方の違いが表れている。
ヒンドゥー教徒はカースト制度の影響から、使い捨ての物を好んで使う。
それに対して、イスラム教徒は、すべての人間は神の創造物として平等と考えているから、シェアする文化があるーー。
これはヒンドゥー教に批判的なイスラム教徒の意見だから、ヒンドゥー教徒に聞けばきっと別の見方が出てくる。
ただ、むかし読んだインドの文化について解説する本に、インド人がバナナの葉を器にするのも、違うカーストの人間と同じ物を使わないようにするため、と書いてあった。
インドで歴史的に、使い捨ての素焼きのカップが使われてきた理由には、たしかにそんなこともあったのだろうけど、現代ではカーストの意識が薄くなったから、あまり意味を持たない。
きっとほとんどのインド人は、クルハドやバナナの葉っぱをただの伝統的な器と考え、カーストを意識していない。
いまではプラスチックのカップが安く大量生産できるから、「クルハド」はむしろ高級化しているという話も聞いた。
それに、バングラデシュにもヒンドゥー教徒がいて、素焼きのカップを全く使わないことはないだろうし、インドでもグラスはよく使われている。
そんな事を総合的に考えても、バングラデシュ人が指摘した「決定的な違い」はおおむね正しいと思う。
バングラデシュの首都ダッカの様子
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