きょうは2月2日だから、「2」にちなんで、日本とイギリスのサバイバーを紹介しよう。
まず1人目は、1709年2月2日に無人島で発見されたスコットランド人の船員、アレキサンダー・セルカーク。
彼は「ロビンソン・クルーソー」のモデルになったと言われる人物だ。
1704年、セルカークを乗せた船が食料と水を補給するために、チリの海岸から約 670キロメートル離れた無人島(現在のロビンソン・クルーソー島)で碇(いかり)を下ろす。
このとき彼は船の状態が良くなく、今後の航海に耐えられるか疑問になり、「この船なんかヤバいよ。別の船が来るまで、この島にいたほうがいいよ」と仲間に提案した。
しかし、みんなの答えはNO。
結局、彼ひとりを島に残し、船は出ていった。
セルカークは島でたったひとりの住民となり、イセエビ(spiny lobsters)を食べ、救助を求めて毎日海を眺め、孤独とみじめさ、そして自責の念に苦しんだ。
自作の小屋で聖書を読んで過ごすセルカーク
その後、彼は野生のヤギを捕まえたり、カブやキャベツを食べたりして生き延びた。
服はヤギの皮で作り、靴については、足の裏が固くなっていたら必要なかった。
そして、ついに運命の瞬間が訪れる。
1709年2月2日、島に立ち寄った船に発見され、セルカークの4年4ヶ月におよぶサバイバルは終わった。
イギリスに戻ってきたセルカークは大注目を浴び、まさに「トキの人」となる。
あるジャーナリストは彼にインタビューを行い、島での生活についての記事を書いた。
彼はロンドンに滞在していたが、心が満たされることなかった。
彼は人里離れた孤独な時間をなつかしく思い、「いまの私は 800ポンドの価値があるが、1ファージングの価値もなかったときの幸せにはなれないだろう」と言った。
But he still missed his secluded and solitary moments, “I am now worth eight hundred pounds, but shall never be as happy as when I was not worth a farthing.
セルカークは金持ちになってロンドンで暮らすよりも、島で一人で過ごした時間のほうが良かったと感じたらしい。
そんな彼は再び船に乗り、西アフリカで病気にかかって1721年に亡くなり、遺体は海に葬られた。
さて、セルカークが発見された2月2日は、1972年にあのサバイバーが日本へ帰ってきた日でもある。
ヤギの皮をまとったセルカーク
右端にロビンソンクルーソー島がある。
ここでクエスチョン。
「大宮島」と「明石」という地名はどこにあったでしょう?
答えはグアム。
1941年に日本軍が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争がはじまったと同時に、日本軍はグアムに侵攻し占領した。
日本統治下で、グアム島は「大宮島(だいきゅうとう)」へ、首都ハガニアは「明石」へされる。
しかし、1944年に米軍がグアム島に上陸すると、壮絶な戦いがはじまり、日本軍は約2万人の死者をだし、壊滅状態になった。
翌45年8月15日、日本は降伏を宣言して戦争が終わると、グアム島にいた横井庄一らのサバイバル生活が始まった。
横井ら5人の元日本兵は日本の降伏を知らず、米軍の襲撃を恐れてジャングルの中を移動し続けた。
横井は、10年も待っていれば日本軍が力を取り戻し、再びグアム島へ攻めこんでくるだろうと信じていた。
5人のうち2人が投降し、3人になった後、さらに2人が1964年に亡くなり、彼は1人きりになる。
そして1972年(昭和47年)、横井はグアム島の住民たちに見つかり、確保された。
その年の2月2日、横井は28年ぶりに日本に帰国し、記者会見で「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と発言し、これが「恥ずかしながら帰って参りました」という流行語になる。
彼のリターンで、日本では「軍人ブーム」が起こった。
横井は人間不信におちいることもあったが、結婚をして、すぐに日本に慣れたという。
彼は歌番組の『夜のヒットスタジオ』に出演し、芸能活動を行ったり、日本で唯一の「耐乏生活評論家」として、全国各地でグアムでのサバイバルを語ったりしていた。
晩年になると、横井は陶芸に開眼し、自らが制作した陶器で銀座三越など全国各地で個展を開いた。
そして、1997年に心臓発作で亡くなり、波乱万丈にもほどがある人生を終えた。
彼もセルカークと同じように、「夜でも明るい日本にいるよりも、グアム島でひとり、星空を眺めていた時のほうが幸せだった」と言うことはなく、戦後の日本での生活をフルにエンジョイしたらしい。
横井庄一
下はグアム島にある「横井ケーブ」。
彼が28年間、潜伏生活を送っていたとされる洞穴を再現したもの。
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