日本史最大の乗っ取り 武士はこうして朝廷から権力を奪った

 

きょう2月6日は、940年に瀬戸内海で藤原純友(すみとも)が反乱を起こしやがった日らしい。
「不幸は友人を連れてやって来る」と言うように、イヤな出来事は単発ではなく、同時多発的に発生することがある。
同じ時期、関東では平将門が乱を起こし、京都の朝廷はてんやわんやのパニック状態におちいった。
平安時代に発生したこの2つの乱を合わせて「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」という。
朝廷にとって、これは終わりの始まりだった。

 

平将門は桓武天皇のひ孫にあたる武士で、関東を拠点にしていた。
彼は一族の争いに勝利して勢いを得ると、朝廷と対立し、939年に関東にあった朝廷の役所を襲撃する。
そして、将門は「新皇」を名のり、独立宣言をして“関東の王”となった。
しかし、940年に朝廷から派遣された武士たちの攻撃をくらって、将門は「王国」とともに滅亡する。

平安時代の中期、瀬戸内海では海賊が暴れまくっていた。
それで朝廷は貴族の藤原純友に命じ、軍を率いてそいつらを討伐させることにした。
そしたら、「ミイラ取りがミイラになる」と言うように、純友は“闇落ち”して海賊になってしまった。
平将門が倒された940年、海賊のボスとなった彼は朝廷に反乱を起こし、伊予国や讃岐国にあった役所(国府)を襲撃し、略奪をおこなう。
しかし、これも朝廷に命じられた武士たちによって鎮圧された。

「東の将門、西の純友」と言われるこの2つの反乱では、平貞盛の軍が平将門を、源経基の軍が藤原純友を倒した。
朝廷が源氏と平氏の力を借りたことで、両氏に中央政府へ進出するきっかけをプレゼントしてしまう。
武士たちにとって、「承平天慶の乱」はステップアップの良い機会になった。
しかし、皇族や貴族たちはそのことに気づいていなかったようだ。

 

それから約100年後、1156年に朝廷内で、後白河天皇サイドと崇徳上皇サイドに分かれて争う「保元の乱」がぼっ発し、崇徳上皇が負け、後白河天皇が勝つる。
この争いの解決で、両陣営はまた武士の力を借りたから、武士集団の存在感はよりパワフリャーになった。
「保元の乱」の本当の勝者は武士だったと言ってヨシ。
慈円は歴史書の『愚管抄』で、この乱によって貴族の世が終わり、「武者の世」が始まったと記している。

3年後、平清盛が「平治の乱」(1159年)で源氏に勝つと、彼は貴族として最高の地位である太政大臣にまで上り詰めた。
そして、平家一族は実質的に日本の頂点に立ち、「平家にあらずんば、人にあらず」というほどの権力を手に入れた。
朝廷の皇族や貴族が安易に武士の力を借りたことで、約 700年つづく武家政権を誕生させることにつながったのだ。

 

相手を利用しようとしたら、自分が利用され、最終的には乗っ取られてしまった。
日本の歴史にはそんな事例がいくつもある。
そのなかでも、武士が朝廷の貴族から権力を奪い、日本の統治者になった例は最大のものだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。