2月23日は、1689年にイングランドのメアリー2世とウィリアム3世が新しい国王に即位し、権利の宣言に署名した日。
分かりづらいのだけど、このときイングランドには2人の国王がいて、共同で統治することになったのだ。
「権利の宣言」では、議会の権力が王よりも優先されることが示されている。
つまり、「国王<議会」という関係を明らかにした内容で、2人の国王がそれを認めたことで、イギリスの歴史は新しい段階へ進むことになった。
「権利の宣言」の具体的な中身はざっとこんな感じ。
・国王が議会の同意を得ないで法律を停止したり、法の執行を停止したりしてはいけない。
・国王は法律を無視すんな。
・国王は議会の承認なしで、勝手に課税をしてはいけない。
・国王に請願することは国民の権利だからな。
・議会の同意なしに、平時に兵(常備軍)を集めんな。
前国王ジェームズ2世がやったのが、まさにこの反対。
彼は法を無視し、議会の同意なしで税金を課したり、軍隊を集めたりして、それをいさめた聖職者を牢獄にぶち込んだ。
こんなやりたい放題に議会が怒り、ジェームズ2世を追放し、新しい2人の国王を迎え入れた。
この革命は血を流さずに行われたため、「名誉革命(Glorious Revolution)」と呼ばれている。
国王がサインした「権利の宣言」は後に、「権利の章典」として国民に公表された。
議会との争いに負け、フランスへ亡命した不名誉王ジェームズ2世
中国の皇帝には約 2200年の歴史がある。
その中には、民衆のために働いた偉大な皇帝もいたけれど、全体的にはジェームズ2世みたいに国を私物化する皇帝が多かった。
彼らは“自分の気分”で必要のない戦争をはじめたり、国の金を浪費してぜい沢な生活を楽しんだり、金が無くなったら増税をして民衆からしぼり取った。
「皇帝、民草が苦しんでおります。どうか自重してください」といさめる忠臣がいると、「そうか、なら死ね」と処刑する。
中国史では、「皇帝ガチャ」で名君が出るのはかなりラッキーで、多くの皇帝は絶対的な権利を持ち、やりたい放題をしていた。
しかし、その間に民衆の不満と怒りが充満していき、一線を越えると爆発し、革命が起こる。
そうなると、イギリスみたいに、皇帝を国外追放するなんてヌルいやり方では済まされない。
皇帝は一族ごとまっ殺される。
中国史は、隋・唐・宋・元・明…と、そんな易姓革命のくり返しだった。
そんな歴史を終わらせることに貢献したのが、「ドラゴン・レディ」と呼ばれた西太后(せいたいこう)だ。
西太后(1835年- 1908年)
19世紀後半、欧米列強が中国(清)に迫っていて、清は憲法を制定し、国を近代化しなけばいといけなかったが、それに失敗した。
当時の最高実力者だった西太后は、皇帝の上位に「憲法」が導入されると自分の行動が制限され、思うように国を動かせなくると考えた。
当時、彼女は靜心斎という庭園を気に入っていて、自分が住んでいる場所の近くから、そこまで鉄道を敷かせ、列車を走らせた。
北京で初めて建設された鉄道は西太后の私物だった。
また、彼女は自分専用の離宮である頤和園(いわえん)の改修工事を行うため、軍艦を購入するはずだった巨額な資金を不正に使用した。
日清戦争で中国が負けた原因のひとつに、このせいで海軍を強化できなかったことがある。
(日本にとっては、「サンキュー、ドラゴン・レディ!」なのだけど)
もし、清で憲法が制定されたら、それはきっと「権利の章典」と似た内容になり、西太后は国の金を自由に使ったり、自分の都合で法律を曲げたりすることができなくなったはず。
だから、彼女はそれを嫌い、近代化改革を進めていた譚 嗣同(たん しどう)らを処刑し、改革の動きをつぶしてしまった(戊戌の政変)。
孫文たちは、皇帝やそのまわりにいる人間は中国の“ガン”と見なし、1911年の辛亥革命で皇帝制度を滅ぼし、現在のような共和国になった。
2月 23日は、天皇誕生日だから、最後は天皇について書いていこう。
きょうで 64歳になられた天皇陛下は、能登半島地震で亡くなった方々に哀悼の意を表し、
「皆さん一人一人にとって穏やかな春となるよう願っております」と国民の健康と幸せを祈られた。
天皇は 12世紀に政治の権利を武士に奪われてから、政治的にはほとんど無力になった。
天皇のパワーダウンを象徴する出来事が、江戸時代初期におきた紫衣事件。
紫衣(しえ)は、徳の高い仏教僧が着る衣で、天皇が高僧に授ける慣習があった。
そのきまりにしたがって、後水尾(ごみずのお)天皇が僧に紫衣を与えると、幕府は「それはダメです」と言い出し、天皇の命令を無効化してしまう。
イングランドでは「権利の章典」によって「国王<議会」の力関係が確定され、日本では紫衣事件によって、「天皇<幕府」という力の差が明らかになった。
12世紀以降、天皇つつましく暮らし、勝手に税金を課したり、戦争をはじめたりすることはなかった。
自分に異議を唱えた人間を牢獄にぶち込んだり、処刑したりしなかった。
イングランドの王や中国の皇帝に比べて、天皇の権限は少なすぎたから、日本では「権利の章典」を認めさせることも、革命を起こして打倒する必要もなかったのだ。
天皇の“非力さ”が、いま国民が誕生日を祝うことにつながっている。
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