平安時代、天皇が新しい仏教(密教)を必要としたわけ

 

3月5日は奈良時代の741年に、 聖武天皇が国分寺を建てるように命じた日。
そして平安時代の823年には、空海が嵯峨天皇から東寺をいただいた日でもある。
同じ仏教でも、東大寺の大仏を建てたころの奈良仏教と、空海が中国から持ってきた密教では種類が違う。
なんで平安時代、天皇や朝廷は空海を唐へ派遣し、新しい仏教を導入としたのか?
これが今回のテーマ。

 

奈良時代の天平年間、日本で災害や疫病(天然痘)が発生し、多くの人が死んで、社会は不安定な状況になっていた。
聖武天皇はそんな国難を仏の力で克服しようと考え、全国に国分寺を建立し、都には巨大な大仏を建てることを決める。
当時の日本では、仏教に頼って、この世に平和と安全をもたらそうとする「鎮護国家」という考え方があったのだ。
しかし、天皇が仏教に依存するほど、坊主たちは力を得て、なかには調子に乗るヤツラもでてくる。
しまいには、道鏡という僧が天皇の地位を奪おうとしたとされる「宇佐八幡宮神託事件」が起きた。
こんなことをするから、道鏡は後世の人から、平将門、足利尊氏とならぶ日本三悪人の1人にされた。

 

遣唐使船

 

仏教勢力が政治に影響を与えることを避けるため、桓武天皇は都を京都へ移すことにした。
しかし、それだけはまだ不十分。
仏教には仏教をぶつければいい。
空海と最澄が唐から戻ってきて、密教を日本へ伝えると、桓武天皇はその新しい仏教を保護し、発展させることで、奈良の旧仏教に対抗させようとした。
それで最澄(天台宗)には比叡山、空海(真言宗)には高野山を与えて寺を開かせ、密教を世に広めさせた。
こうした密教が勢力を広げていけば、奈良仏教は力を失っていく。

823年には、嵯峨天皇が空海に東寺を与えた。
平安京の入口である羅城門の東西には、東寺と西寺の2つの寺があり、それぞれ都を守る役割を担っていた。
天皇がこの国家鎮護の寺を空海にまかせたということは、奈良仏教は「いらない子」になったと宣言されたようなもの(おそらく)。

奈良仏教は「顕教(けんぎょう)」と言われ、平安時代に空海や最澄がはじめた仏教は密教(みっきょう)と言われる。
密教には即身仏があるけれど、顕教にはない。

天台宗では、この2つをこう分けている。(顕密二教の法要儀礼

顕教:仏が衆生の性質に応じて理解しやすく説かれたもので、自らを救い、他を利することを教えるもの。
密教:仏の悟りの世界そのものを示す秘密の教法で、仏と自己の一体を観念し、仏の神秘力威力の加護によって、仏の境地に達しようとするもの。

これ以上のことは各自で調べてくれ。

 

天皇や朝廷は政治と仏教を切り離し、奈良仏教の影響を弱めたかったから、密教というニューウェイブの仏教を支持した。
これが成功し、奈良仏教は政治の舞台から姿を消す。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。