日本人にとって3月10日は、戦前と戦後で見方が逆転した珍しい日だ。
戦前には、国民が毎年「バンザーイ!」とお祝いをしていたのに、それが一転し、現在では頭を深く下げ、涙を浮かべる日になった。
では、日本に起きた歓喜と悲劇の歴史を見ていこう。
陸軍記念日のお祝い
日露戦争の末期の1905年、日本軍24万人とロシア軍36万人が中国東北部の奉天でぶつかる。
両軍合わせて60万人の大兵力が激戦を繰り広げ、日本は3月10日、世界史でもあまり例のないほど大規模な戦いを制した。
この戦いでロシア軍が敗北を認めたことで、欧米諸国は日露戦争で日本が勝ったと認識するようになる。
一方、ロシアは大ピンチにおちいった。
しかし、まだロシアには、強大なバルチック艦隊が残っている。
それでロシア宮廷は、
「それでもバルチック艦隊なら……バルチック艦隊ならきっと何とかしてくれる……!! まだ あわてるような時間じゃない」
みたいな希望を持っていた。が、5月の日本海海戦で、東郷平八郎率いる日本海軍に世界史でもマレに見る惨敗をしたことで、ライフポイントはゼロになった。
陸でも海でも日本に負けたロシアは、屈辱的な講和条約の交渉に臨むしかなくなる。
もし、日本が日露戦争に負けていたら、きっとロシアの植民地になっていた。
日本の運命を変えた奉天会戦での勝利を記念して、日本では翌1906年から、3月10日は陸軍記念日として毎年お祝いが行われるようになる。
ちなみに、海軍記念日は日本海海戦で勝利した5月27日。
大空襲で焼け野原となった東京
令和の日本で、戦陸軍記念日を知っている人はなかなかいない。
知識の限界は日露戦争で、「奉天会戦ってなに?」という人が多いと思われる。
現在の日本人が3月10日に思い出すのは、太平洋戦争の末期にあった「東京大空襲」だ。
米軍は以前から、江戸時代に何度も起きた火災や1923年の関東大震災について詳しく調べ、火元や風向きなどを分析し、木造家屋が密集する日本の大都市には、焼夷弾による攻撃が最も効果的だと見抜いた。
そして、1945年3月10日、Bー29が不気味な音を立てて飛来し、焼夷弾を次々と投下し、地上を火炎地獄に変えた。
これによって11万人以上が死亡し、約310万人が被災者となる。
この無慈悲な攻撃を当時の新聞は、憎しみを込めて「東京大焼殺」と呼んだ。
現在の日本では毎年3月10日になると、犠牲者のための法要が行われ、ことしは都知事のほか、秋篠宮ご夫妻が参列された。
東京都はこの日を「東京都平和の日」に制定している。
東京大空襲と陸軍記念日が重なったのは偶然だと、一般的には考えられているが、米軍がこの国民的な祝日をねらって爆撃したというウワサもある。
これがどこまで事実かは分からないが、日本人にとって3月10日は歓喜の日から、涙と祈りの日に変わったことは間違いない。
太平洋戦争の現実①敵は“飢え”。日本兵がフィリピンでしたこと
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