トルコについてある海外サイトでは、
Turkey. That magical place where East meets West.
(トルコ 東洋と西洋が出会うマジカル・プレイス)
と紹介されていて、わーくにについては、
Japan isolated itself from the rest of the world for 265 years.
(日本は265年間、世界から孤立していた)
と表現されていた。
といっても、日本はオランダと交流していたから、完全に孤立していたわけではない。
トルコは地理的にはアジアとヨーロッパ、文化や宗教的にはイスラム教とキリスト教の境目で、その2つが混ざり合っていることが大きな特徴となっている。
対して日本はヨーロッパ目線では「Far East(極東)」と、アジアの最東端に位置していて、それ以上東には広大な太平洋が広がっているだけ。
今日4月2日に起きた出来事から、そんな日本とトルコの違いが見えてくる。
まず、日本では1332年のこの日、鎌倉幕府が、元弘の乱で倒幕に動いた後醍醐天皇を隠岐島(おきのしま)へ追放することを決定した。
しかし、後醍醐天皇はすぐに島から脱出し、翌1333年には鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政をスタートさせる。
その120年後、トルコでは1453年の4月2日に、世界史を動かす世紀の一戦、メフメト2世によるコンスタンティノープル攻防戦が始まった。
オスマン帝国のメフメト2世は艦隊を率いて、東ローマ帝国に攻め込もうとしたが、東ローマ帝国は「知ってた」とばかりに、金角湾の入口に太い鎖を張っていたため、オスマン艦隊は侵入できず。
するとメフメト2世は艦隊を陸上に引き上げ、油を塗って滑りやすくした木で道をつくり、その上を移動させることにした。
「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこのミラクル作戦は成功し、70隻もの船がいきなり金角湾に現れ、東ローマ帝国軍は度肝を抜かれた。
その後も戦いは続き、徐々にオスマン帝国が優勢に立っていく。
そして、東ローマ帝国最後の皇帝・コンスタンティノス11世は滅びの運命を受け入れ、5月28日の夜に演説を行った。
将兵たちは涙を流しながら、「キリストのために死ぬのだ!」と叫んだという。
しかし、オスマン帝国による総攻撃が開始される直前、援軍が現れ、東ローマ帝国は奇跡的に救われた…、というのはアニメでよくある展開で、現実は違う。
1453年の5月29日、メフメト2世の攻撃によって首都コンスタンティノープルは陥落し、一千年の歴史を誇るローマ帝国は完全に滅亡した。
これでキリスト教の国は消滅し、トルコはイスラム教の国となる。
メフメト2世がハギア・ソフィア聖堂をモスクに改修したのはその象徴だ。
そして、コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都になり、イスタンブールと改称された。
これには、「イスラムの地」という意味の言葉を語源にしたという説がある。
それからトキが流れ、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、今度はヨーロッパ諸国のターン。
1920年に、イギリスやフランスなどの連合国がオスマン帝国にセーヴル条約を結ばせた結果、オスマン帝国は広大な領土を失い、首都イスタンブールは国際管理下におかれるという屈辱的な状態となった。
コンスタンティノープルの包囲戦
日本の歴史には、「コンスタンティノープル陥落」のような出来事は一度もな起こらなかった。
異なる宗教を持つ異民族に攻め込まれ、国が滅ぼされた苦い経験はなく、元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡するといった日本人どうしの戦いの連続だ。
13世紀にモンゴル軍が攻めてきやがったが、鎌倉武士&神風のタッグによって返り討ちにされる。
日本は極東にある島国で、外国にとっては攻め込むことが困難だったから、「名誉ある孤立」という選択もできた。
4月2日は1890年に、初代天皇の神武天皇を祀るため、神武天皇の宮廷があったとされる場所に、橿原神宮が建てられた日でもある。
日本では皇室が一度も絶えることが無かったから、こんなことが可能だった。
強大な東ローマ帝国やオスマン帝国は消え去ったが、日本はいまも健在だ。
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