火災の混乱にまぎれて盗みをはたらく者、または、周囲が忙しいことを利用し、不正な利益を上げる者を火事場泥棒という。
第一次世界大戦中、日本はそんな「ズルいこと」をした。
それが、1915年のきょう5月9日、中国(中華民国)の袁世凱が受け入れた対華21カ条要求だ。
この大戦で初めて戦車や潜水艦などの新兵器が登場し、毒ガスや機関銃が本格的に使われて、ヨーロッパでは空前絶後の犠牲者がでた。
欧州の各国が血みどろの戦いをしている間、日本は連合国側(=勝ち組)に参戦し、中国にあったドイツの拠点である青島(山東省)を攻撃し、すぐに占領。
ドイツ軍の主戦力はヨーロッパにあったから、ここでは激しい戦闘は起こらず、日本軍は500人以上の戦死者を出したものの、わりと簡単に陥落させた。
青島要塞を攻撃する日本軍
この戦いの後、ドイツ軍の捕虜が日本へ送られ、結果的に交響曲第9番(第九)、ソーセージ、ハム、バウムクーヘンなどのドイツ文化が日本に伝わった。
1914年11月に青島の戦いが終わると、日本は約2ヶ月後の1915年1月に、中国政府に対し 21カ条の要求をした。
これがその内容の一部。
・ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承する(いただく)こと。
・旅順・大連の租借期限を99年に延長すること。
(この内容だと、旅順と大連は1997年まで日本が統治することになる)
・中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること。
・中国警察に多数の日本人を雇用すること。
欧米列強がヨーロッパの戦場に全集中しているスキに、日本は中国から利益を得ようとしたのだ。
西洋諸国にとっては、上記の後半部分、つまり日本が中国の財政、警察、政府問題において決定的な発言権を持つ内容に強く反発した。
これは中国を実質的に日本の保護国とし、欧米の影響力を低下させるものだったから。
The last part would make China in effect a protectorate of Japan, and thereby reduce Western influence.
日本はこの部分を削除し、最終的には 13ヶ条に減らしたうえで、5月9日を期限とする「最後通告文」を中国側に突きつけ、袁世凱が受け入れた。
これによって、日本は中国で少しの得をしたが、米英の信頼を大きく失ったという。
(Japan gained a little in China, but lost a great deal of prestige and trust in Britain and the U.S.)
火事場泥棒のようなことをしたら、周囲から冷たい視線を浴びるのはアタリマエ。
この21カ条の要求については、日本は目先の欲にくらんで、国際社会の空気を読めなかったと言われても仕方ない。
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