あるインド人は日本に住むようになって、
「インドではヒンドゥー教とイスラム教の対立しているから、何かきっかけがあれば暴動が発生して、何人も死ぬことがある。でも、日本はまったく違って、国民は宗教に関心が無い。社会に緊張感が無くて、自由な雰囲気があるのはとても良いことだ」
と感心した。
また、あるドイツ人は、
「日本人は神道と仏教の両方を信仰している。キリスト教のような一神教の世界では考えられない」
と驚いた。
この2人の指摘は正しい。
ほとんどの日本人は自分は無宗教と考えているけれど、神様にも仏様にも手を合わせるくらいの信仰心はもっている。
こんな神仏習合の伝統は古代からつづいている。
朝鮮半島から仏教が伝わると、この新しい宗教を受け入れるべきかどうか、おもに蘇我氏と物部氏との間で争いが始まった。(崇仏論争)
しかし、用明天皇が「仏教を信じ、神道を尊重する(仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ)」と仏教を公認し、日本の方向性を示した。
ちなみに、この天皇の息子が聖徳太子(厩戸皇子)だ。
日本の歴史では神道と仏教は共存、というか神仏習合として一体化されて人びとから信仰されてきたが、例外的な時期がある。
1871年(明治4年)のきょう7月1日、明治政府が神道を事実上の国教と定めた。
この前段階として、1868年に政府から出された「神仏分離令」がある。これによって、それまでの神仏習合の考え方は禁止され、神道と仏教、神社とお寺をはっきり区別するようになった。
その副作用として、全国のお寺や仏像が破壊される廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こる。
そして、政府は国として国民に神道を信仰するよう働きかけ、神道は国家神道へと性質を変えた。
なんで明治政府はこんなことをしたのか?
「坊やだからさ」というワケではもちろんない。
この時代の政府の目標は、日本の社会を徹底的に改革し、欧米列強のような近代国家へ生まれ変わらせること。
伊藤博文など、政治の中心にいた人びとは、当時の欧米では国民が同じキリスト教を信じることによって団結があり、社会も安定していることに注目した。
政府は1871年に、岩倉使節団をアメリカやヨーロッパ諸国に派遣し、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通といったリーダーたちが約2年をかけて、西洋の制度や考え方に触れ、日本が参考にすべきポイントを理解した。
この岩倉使節団のメンバーの1人、久米邦武(くめくにたけ)は、西洋人の信仰心についてこう書いている。
「人々が神を敬う心は日々のつとめに励む大本であり、そうして品行品行を正しくすることが治安を保つ原動力となるのである。ここから国が富み、強力にもなるのだ」
この敬神(神をうやまう)の心は「酸素」のようなもの。目には見えないが、人間にとっては欠かせないもので、あたりに漂って素晴らしい働きをする。
西洋では他国の国民性を知る際には、必ずその宗教をくわしく聞こうとする。そして、もし宗教をもたない人間であることがわかると、西洋人は「まともな心を欠いた者、野蛮人であるとして用心し、交際しないようにする」という。
神の教えを守らない人間が法を守ることもない。それでは、獣と変わらないという見方が西洋社会にはあったらしい。
久米はキリスト教の“効果”をこう強調する。
「西洋人が心から神を敬う気持ちによって行いを正し、奮励努力して互いに協調するのはこの信仰に基づいているからである。」
その一方で、日本人については信仰心が薄く、宗教が社会にほとんど影響を与えていないことを指摘したうえで、久米は「世界で最下等に位置づけされると言っても間違いなかろう」と断言する。
(だから、冒頭のインド人は緊張感が無くていいと言ったのだけど。)
ソース:「現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記 (角川ソフィア文庫) 久米 邦武 (編集, 著), 大久保 喬樹(翻訳)」
日本がモデルにした欧米諸国では、キリスト教が国教やそれに近い存在としてあり、国民が一体となっている。
日本もそれにならい、明治初期にはキリスト教を国教化することも検討された(おいっ)。
しかし、これは現実的ではなかったため、それに代わる思想として、神道を国教のような存在に定め、キリスト教徒が神をうやまうように、日本国民も天皇を崇拝するようにした。
ただ、国民精神のよりどころとして政府がつくったこの国家神道が、実際にどれだけ効果的だったかは分からない。
現代では、こんな歴史があったことを知らない日本人も多いと思われる。
やっぱり、日本人には仏教と神道の両方を信じて尊重するという、伝統的な神仏習合の考え方が合っているのだ。
【欧州と日本の違い】神道が仏教に“ハイジャック”されなかった
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