先日の7月18日は、660年に唐・新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた日だったから、哀悼の意を込めてこんな記事を書いてみた。
今回はそのスピンオフ。
百済が地上から消える150年ほど前、501年に即位した武寧王(ムリョンワン/ぶねいおう)を紹介しよう。
武寧王は韓国のドラマにも登場した有名な王で、日本生まれだ。
彼が王になる少し前、百済は北方の高句麗から攻撃を受け、475年に都である漢城(現在のソウル)を奪われ、存亡の危機におちいった。
「危機」どころではなく、この時、百済は一時的に滅亡したとする学者もいる。
周囲を敵に囲まれ、百済が弱体化していた状況で即位した武寧王は、中国と倭国(日本)との関係を深めることにし、特に倭国からは任那四県を譲り受け、さらに軍事的な支援を要請した。
*「倭」は日本に対する蔑称なので、ここからは「日本」と表記する。
こうして百済は領土を拡大し、防御力をアップさせて国を安定させたため、武寧王は高い評価を受けている。
もちろん、武寧王は日本からタダで領土をもらい、軍事支援を受けたわけではない。
彼が百済の五経博士(ごきょうはかせ)を日本へ派遣したのは、その見返りだったとされている。武寧王は技術者も派遣し、日本との関係を強化していく。
五経博士は中国にあった官職の一つで、儒学でとても重要な五つの書(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を教えていたから、簡単に言えば五経博士は儒学の先生だ。
日本はその知識を求めていた。
百済は黄海をはさんで中国大陸と向かい合っていたから、中国から先に進んだ知識や技術を学び、日本がそれを取り入れたことになる。
五経博士は役人の名称で、個人の名前ではないから、何人もいた。
日本へやってきた段楊爾、漢高安茂、馬丁安、王道良、王柳貴、王保孫、王有㥄陀、潘量豊、丁有陀などの五経博士は中国人だった。
五経博士が日本へ派遣された理由としては、当時、百済が日本に人質を送ることが制度化されていたから、という指摘もある。
『日本書紀』によると、百済の王が弟を人質として日本へ送る際、すでに自分の子どもを妊娠していた女性も一緒に行かせ、もし途中で子が生まれたら送り返せと命じた。
すると461年に、一行が現在の佐賀県にある島まで来たところで、「オギャー」という産声が上がった。約束通り、すぐに百済へ送り返された赤ん坊が武寧王だ。
そんな縁から、去年こんなイベントが開かれた。
朝日新聞の記事(2023年6月6日)
日本生まれの百済の「武寧王」 没後1500年で4年ぶり日韓交流
また、武寧王と父王の妻は日本人女性で、百済の王妃には日本人女性が何人もいると指摘し、日本が政策的に百済の王と結婚させていたと主張する韓国の研究者もいる。(武寧王・王妃)
武寧王と王妃の棺の材料には、日本産の木材が使われているという。
武寧王について知ると、百済と日本のつながりの深さが見えてくる。
朝鮮通信使もいいけれど、武寧王を通じた日韓交流イベントが開かれてもいい。
韓国側としては「日本生まれ」など、いろんな点に引っかかるかもしれないが。
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