韓国の建設技術者協会会長、尹永球(ユン・ヨング)さんが中央日報で興味深いコラムを書いている。(2024.08.01)
【時論】韓国の建設技術者、匠の精神と革新技術でリセットを
朝鮮時代(1392年〜1897年)、王宮や寺院などを作る職人の地位は尊重され、建設工事の総指揮をとった「都片手」の立場は特に高かった。
たとえば、15世紀に崇礼門(南大門)の修理工事を担当した都片手の身分は「正五品」だったという。
朝鮮時代の身分制度はよくわからないが、「正五品」は高級貴族に相当したと思われる。
それで、その時代には「都片手は宰相たる器量がなくてはならない」と言われたと。
そんな素晴らしい匠の精神を発揮して、韓国の建設をより発展していかなければいけないと会長さんは強調する。
それについては、今後ますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げるとして、朝鮮時代には職人の役割と地位がとても高かったという点が引っかかった。
建設ではなく美術についてだけど、「匠の精神」について、19世紀の日本人はこれと反対のことを指摘している。
朝鮮王朝は江戸時代の日本以上に強い鎖国体制をとっていて、実質的に中国としか交流をしていなかった。
1876年に日朝修好条規を結んで朝鮮が開国し、日本人やヨーロッパ人が入ってきて朝鮮社会の様子をリポートすることで、「隠者の国」の実態が明らかになっていく。
そのころ朝鮮を旅行したイギリス人のイザベラ・バードが、朝鮮の美術についてこう記した。
「朝鮮の輸出品リストに現れる製造品は、紙と高麗人参だけである。美術品は全くない。」
当時の日本人の記録を見ても、高麗人参については高い評価がある一方、美術品についてはイマイチどころか、サッパリだ。
衆議院議員だった荒川五郎が1910年に韓国が日本に併合される直前、朝鮮半島を視察して『最近朝鮮事情』を書いた。
そこには朝鮮の美術について、
「かの国では、現今の美術物に、ひとつとして感服できるものはない」
「今の朝鮮の陶壺業は実につまらないものである」
「店などにある朝鮮焼きの品物を見ると、どうしてこれ程までに落ちたものかと思われる」
「今時の朝鮮人の持っているもので少しでも良いものは皆日本製である」
とボロクソ書いてある。
この時代はまだ日本の統治がはじまっていないから、「悪辣な日帝が〜」と言うことはできない。
荒川 五郎(1865年 – 1944年)
荒川が朝鮮の焼き物を見て、「どうしてこれ程までに落ちたものか」と驚いたことにはワケがある。
数百年前の焼き物のレベルはとても高く、中国人が感心した程で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には朝鮮の陶工が日本へ連れてこられ、そのやり方を伝えて有田焼が生まれた(とされる)。
*これは有田焼の祖と言われる李参平のこと。
有田焼は彼がはじめたのではないという説もあるが、李参平など朝鮮出身の陶工が有田焼を発展させたことはたしかだ。
荒川はそうした歴史に触れ、「朝鮮は日本の焼き物の本家先生である」と書いている。しかし、19世紀後半の朝鮮では、美術物で感服できるものは何もないから、どうしてこれ程までに落ちぶれたのかと首をひねる。
それと同時に、荒川は朝鮮人の器用さに目を見張った。
「笠や冠などを馬の尾で編んでいるところなどを見れば、その指先の達者なのに、すっかり驚かされる」
朝鮮の職人には高い技術があるが、それをほかに転用することができなかった。もし、それができていれば、朝鮮の美術がこれほど衰退することもなかっただろうと荒川は指摘し、次のように書く。
「彼ら職人には、たいへん酷なものである。彼らに教え、彼らを指導する人がいれば、その才能が発揮されないことがあるだろうか」
朝鮮では社会的なサポートがなかったから、職人のすぐれた才能を生かすことができなかった。
これは、朝鮮時代の職人に対する見方が影響している。
このブログの読者さんで、歴史にくわしい韓国人が以前コメントで、朝鮮時代の陶工について「賤民として迫害され、生計を立てず飢え死にしていた」と教えてくれた。
朝鮮には李参平のような優秀な職人がほかにもいたはずだけど、そんな陶工の名前も作品も、技術も残っていない。
日本の場合、鍋島藩が焼き物を本格的に生産することを決め、李参平を支援し、いくつもの窯場をつくった。
ものづくりを「賤業」とみなさず、職人を尊重する日本人の価値観が李参平を育てたと言ってヨシ。
李参平が朝鮮への帰国を拒否し、日本に住むことを選んだ理由は、朝鮮では自分の才能は活かされないと考えたからだろう。
李参平が日本に渡らず、朝鮮に残っていたら、彼はどうなっていたか?
韓国の記者が朝鮮日報のコラムで、彼は無名のまま終わっただろうと推測している。(2018/06/03)
その名が歴史に残った可能性はほとんどない。寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物というのは思い当たらない。
もし陶工が朝鮮に残っていたら
「正五品」の地位を与えられた職人は例外中の例外で、一般的に職人は蔑視されていた。
匠の精神と革新技術で、韓国の建設技術者がリセットをするのは良いことだ。
そのためにも、朝鮮時代にはすぐれた技術を持つ職人がいても、育てることができなかった理由について考えることは有効だと思う。
職人の地位が尊重される国だったら、李参平は喜んで故郷に戻ったはずだ。
荒川が見た京城(現ソウル)
手前のワラの屋根の家が朝鮮人の地域で、奥の住宅地が日本人の地域
韓国人「日本人は、謙虚ですね」 日韓の比較・考え方や社会の違い
李氏朝鮮が技術者(職人)を優遇したというのは完全な嘘です。
文禄·慶長の役の時に日本に連れて行かれた朝鮮の陶工たちは、後に徳川幕府が朝鮮との外交を再開する際、朝鮮に戻そうとした時、一人も朝鮮に帰りませんでした。むしろ、朝鮮に残っていた自分たちの親戚を日本に連れて行きました。朝鮮は技術者や商人にとっては地獄でしたが、日本では侍と同じように優遇してくれるので天国に出会ったのです。朝鮮が技術者を優遇したということは、国の「kuk-ppong」に過ぎません。
職人だけでなく、すぐれた能力や技術のあった人たちを活かせなかったのは、朝鮮王朝の大きな失敗でした。
日本に「強制連行」されたはずなのに、祖国へ戻ることを拒否したという事実はとても重い。