日本とインドネシアの関係②生活の違いと独立宣言の「皇紀」

 

日本とインドネシアの違いってなんだ?

ということを知りたかったら、インドネシアに住んだ経験のある日本人に話を聞くのが早い。

ということで、インドネシアの生活情報サイト「じゃがナビ」からその声をひろってみた。

こんなに違う!日本とインドネシア

まずは季節。
インドネシアには、日本のような四季がなくて一年中夏。

365日暑い。それはこの豊かな四季に囲まれた日本の環境とは大きな違いをもたらします。空気に秋の訪れを感じる!そんなこともありません。

あるとしたら、「hot hotter hottest」の3つの「季節」ぐらいか?

 

次に時間感覚。
「時間厳守」でいえば、日本人の右に出る国民はない。
そう言い切ってもいいだろう。

インドネシアの時間感覚は、時にとってもルーズに感じられます。電車も時刻表はあって無いようなもので、単に来たら乗る。トランスジャカルタなどバスには時刻表すら存在せず、ただただ待ちます。

アパートの修繕もこんな感じらしい。
約束の時間になっても業者が来ない。

ずっと待っていると、「今日は行けません」と連絡がくる。
インドネシアでは、そんなことがよくあるらしい。
ドイツでも似たようなものだと聞いたことがある。

 

最後は日本とインドネシアの違いというより、日本と外国の違い。
水。
日本は水と安全がタダ。
そんなことを昔、イスラエル人が言っていた。
蛇口から出てくる水をそのまま飲める国は世界でも多くはない。

インドネシアでは私は、食材を洗うにも、うがいや歯磨きをするにもミネラルウォーターを使用していますが、日本に帰ってくるとひねった水道からの水そのままですべてOKというのはすごいことだなと感じます。

でもこれらのことは、インドネシアだけじゃない。
日本から見たら、タイやミャンマーなど東南アジアの国はどこもこんな感じ。

 

日本とオランダは仲が良かった。
日本が江戸時代に「鎖国」をしていたときも、オランダは唯一おつき合いがあったヨーロッパの国だったしね。

でも、日本とオランダの関係が険悪になったことが一度だけある。
それは太平洋戦争のときに、日本がオランダを降伏させてインドネシアの植民地支配を終わらせてしまったとき。

 

東京のオランダ大使館のホームページにそのことについて書いてある。
*現在はリンク切れ。

歴史の闇(1942-1945)

天然資源の確保と大東亜共栄圏の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。

当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。

「日蘭交流の歴史」

オランダはインドネシアを支配し、現地の人びとを働かせて自分たちは楽な生活をしていた。
日本がそんな生活を終わらせたのだから、オランダからしたら「とんでもないことをしてくれたな!」となる。

でも、オランダから解放されたインドネシア人は喜んだ。

 

インドネシアの国旗

1945年の独立時に制定された国旗。

赤と白は13世紀末の発祥と言われる伝統的な国民色で、白色は潔白を、赤色は勇気を表わし、この2色の組み合わせで潔白の上に立つ勇気という意味をもつ。また、同時に赤と白は、太陽と月を表している。

国旗の意味や由来など

今回はインドネシアと日本の関係について、「独立宣言文にある皇紀」について紹介したい。

 

RETRIPという旅行サイトで、インドネシアの首都ジャカルタにある観光スポットを紹介している。

熱帯の熱気ぷんぷん!ジャカルタで今すぐ行きたいおすすめ観光スポット15選

 

この15のスポットのなかで、もっともおすすめなのが独立記念塔「モナス」という。

独立記念塔(モナス)

高さ132m、頂上部にはなんと50kgもの純金で燃え盛る炎をかたどった、国家的なモニュメントです。ジャカルタ観光では外せない、観光スポットとなっています。

ボクもこのモナスに行ったことがある。
ここには、1945年に当時のスカルノ初代大統領によって読み上げられたインドネシアの独立宣言文がある。

 

それが、この写真。

 

この独立宣言では、インドネシアの独立記念日に皇紀が使われている。

こう‐き【皇紀】

日本書紀の記述により、神武天皇即位の年(西暦紀元前660年にあたる)を元年とする紀元。現在一般には用いられない。

デジタル大辞泉の解説

皇紀は太平洋戦争までは日本でもよく使われていたけど、今では珍しい。
下の写真のように、神社で見かけるかもしれない。

 

だからインドネシアで、今でも皇紀を目にすることができると思わなかった。
写真でははっきり見えないけど、「05」と書いてある。
これは、「皇紀2605年(1945年)」のこと。

 

なんでインドネシアは、独立の日を日本の皇紀で記したのか?
それにはこんな意味があるらしい。

「17/8/05」

・これは、ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣言書の日付である。「05年8月17日」を意味する。
05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年である。

・スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。西暦は植民地支配への反発から避けた

・首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉でなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。

「日本紀元2605年」インドネシア独立宣言書が西暦を使わなかった理由

次回はインドネシアと日本の関係について、「PETA(郷土防衛義勇軍)」を紹介します。

 

 

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2 件のコメント

  • オランダ大使館のHPの
    >天然資源の確保と大東亜共栄圏の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。

    とありますが、これでは資源目当てに日本が一方的に侵攻したように読めますね。

    日本に宣戦布告をしてきたのはオランダの方からです。そして9日間でオランダは全面降伏しました。

    突然の書き込み失礼致しました。

  • ぶっちゃけ、オランダは「悔しい」という気持ちがあると思います。
    以前、オランダ人から「日本と戦って負けて、インドネシアから追い出されたのは残念だ」と言われたことがあります。
    そうした気持ちもあって、オランダ中心の見方をしているように思います。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。