1721年のきょう8月30日、ニスタット条約が結ばれたことで「大北方戦争」(1700〜21年)が終わった。
ゴジラ・ラドン・キングギドラの怪獣が戦った『怪獣大戦争』みたいな名前のこの戦争は、大きく見れば、ロシアのピョートル1世とスウェーデンのカール12世による争いになる。
周辺諸国が参加したため、この戦争はかなりややこしくなった。
スウェーデンには、ポーランド・リトアニア共和国、オスマン帝国、イギリス(グレートブリテン王国)などが味方した。
一方、ロシアには、デンマーク=ノルウェー、ザクセン選帝侯領、ポーランド・リトアニア共和国、プロイセン王国、グレートブリテン王国などが味方した。
両陣営に同じ国名があるのは、その国が立場を変えたから。それだけ、北方大戦争は怪獣大戦争よりも複雑だ。約20年にわたって行なわれたこの戦争で、約50万人が亡くなった(Great Northern War)。
日本の歴史上、最大の内戦である戊辰戦争でも全体の死者は1万人以下だったから、これは空前絶後のレベル。
大北方戦争の結果は、カール12世が頭を撃ち抜かれて死亡してスウェーデンが敗北し、ロシアの勝利に終わる。それによって、大国だったスウェーデンは領土を失い、弱体化した一方で、ロシアはヨーロッパで最も力のある国の1つとなり、ロシア帝国が成立した。
ポーランドは大ダメージを受け、ロシアの実質的な保護国となる。
プロイセンはこの戦争の後に軍事力を強化し、いくつかの戦いを勝ち抜いてヨーロッパで一目置かれる大国となった。
こういったパワーバランスの変化が次の戦いの要因になる。
カール12世の遺体
こめかみに狙撃された痕(あと)がハッキリ残っている。
ゴジラシリーズの第6作『怪獣大戦争』
8月30日は1757年に、七年戦争でロシア軍がプロイセン軍と戦って勝利した「グロース=イェーゲルスドルフの戦い」があった日でもある。
七年戦争は1756(または1754)年から1763年に、プロイセンとオーストリアの対立からはじまった戦争。
イギリス・ポルトガルなどがプロイセンに、フランス・ロシア・スウェーデンなどがオーストリアに味方した結果、この戦争はヨーロッパだけでなく、アメリカ大陸やインドでも戦闘が行なわれた。
先ほどの戦いが大戦争なら、七年戦争は「世界大戦」だ。
結果は、プロイセンが勝利したことで、ヨーロッパでの地位をさらに高めた。イギリスはフランスをインドから追い出し、インド全土を植民地化す重要な第一歩となる。後にインドを手に入れたイギリスは大発展し、世界的な帝国となった。
日本の江戸時代にあたる時期、ヨーロッパではこのほかにも三十年戦争やフランス革命戦争など、本当にたくさんの戦いが起きた。
ヨーロッパで争いが少なかった時代をAIに聞くと、こんなことを言う。
・19世紀末から20世紀初頭の「長い平和」の期間が挙げられます。特に1871年の普仏戦争終結から第一次世界大戦勃発までの間は、比較的戦争が少なかったです。
もちろん、ほかにも平和が長くつづいた時代があったのだろうけど、極東の島国に比べれば、ヨーロッパでは本当に戦争が多かった。
日本で8月30日は、1590年に徳川家康が江戸城に入城した日になる。
江戸幕府が成立したのは、家康が将軍になった1603年だが、広く考えれば、江戸城を拠点にした1590年を江戸時代のはじまりとみてもいい。
江戸時代、家康が江戸城に入城した日は、重要なお祝いの日となったのだから。(八朔御祝儀の日)。
そして1615年の8月30日、幕府が全国の大名を統制するために法武家諸法度を制定し、こんなことが決められた。
・各藩の大名は城を築くことを禁止され、城を修理するにも幕府の許可が必要となる。
・幕府の許可なしに、大名同士が結婚をしてはいけない。
・江戸参勤交代に関する規定がもうけられた。
こうして江戸幕府が支配体制を確立したことで、約270年つづいた江戸時代には大きな争いは起こらず(あえて言うなら島原の乱ぐらい)、日本は平和に包まれた。それを「パックス・トクガワーナ」という。
紀元前27年に、アウグストゥスがローマ皇帝に即位してから約200年の間、ローマは安定し平和な時代を送っていたため、その期間は「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる。
それを元ネタにして、江戸時代は「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和)ともいわれる。だから、この時代に、カール12世みたいな死に方をした大名はいない。
日本はオランダ以外のヨーロッパの国を締め出し、「鎖国」体制をとることができたが、欧州の国にそんな選択肢はなかった。自国がどんなに平和友好をアピールしても、他国がそれに同意するかは不明で、攻め込まれたら戦うしかない。
日本は島国で外国の争いに巻き込まれなかったことも、パクス・トクガワーナの一因になっている。
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