はじめの一言
「日本の子供程、行儀よくて親切な子供はいない(モース 明治時代)」
「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・縁切寺と江戸時代の女性の地位
前回、承久の乱(鎌倉時代)にあったアジールという「究極の避難所」について書いた。
アジール
聖域を意味する語。そこに逃げ込んだ者は保護され,世俗的な権力も侵すことができない聖なる地域,避難所をいう。
古くはユダヤ教の祭壇,ギリシアやローマの神殿,日本の神社や寺院の領域が,これに当たる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
日本でのアジールは戦国時代をすぎて江戸時代になると、わずかに残るだけとなっている。
【アジール】
織田信長や豊臣秀吉もアジール廃止の方針をとり,徳川氏もこれを踏襲し,幕府は1665年(寛文5)の諸宗寺院法度によって寺院アジールを完全に否定したのである。
江戸時代,アジールはわずかに縁切寺と火元入寺の制にその名ごりをとどめた。(百科事典マイペディアの解説)
ここで取り上げたいのは、アジールの「名ごり」とされている「縁切寺(えんきりでら)」について。
・縁切寺と江戸時代の女性の地位
縁切寺については、高校の日本史でならう。
縁切寺
夫との離縁を望む妻が駆け込み、一定期間、尼の修業をすると、離婚を成立させた尼寺。
(日本史用語集 山川出版)
江戸時代は「三従の教え」に象徴されるように、女性の地位が低かった。
三従の教え
家にあっては父、嫁としては夫、夫死しては子に従う三つの道のこと。特に江戸時代は、女性の心構えとして教えられた。
(日本史用語集 山川出版)
この「三従の教え」は儒教の考えにもとづくもので、儒教の影響を強く受けたベトナムにもあった。
確か、朝鮮(韓国)にもあったような?
江戸時代には、「七去(しちきょ)」といって夫が妻に離婚を言い渡す7つの理由があった。
七去(しちきょ)
妻を離婚できる七つの事由。舅に従わない、無子、多言、窃盗、淫乱、嫉妬、悪疾をいう。
律令の定めであったが、近世に「女大学」などの書で一般化。離婚の際には絶縁状(三行半)が書かれた。(日本史用語集 山川出版)
この時代は、特に「無子(子どもができない)」ということは離婚の大きな理由となった。
この中にある「絶縁状(三行半:みくだりはん)」という言葉は今でもよく使う。
テレビ番組で「三行半を突きつける」なんて聞いたことがないだろうか。
夫から妻への離婚を申し渡すことで、この言葉は江戸時代にうまれた。
夫が妻と離婚したいときに、「おまえと離婚する!」とこの絶縁状をわたせばそれで離婚が成立した。
三行半というのは、文字を書くことができない庶民のための絶縁状だったらしい。
江戸時代には字を書けない人は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより離縁状と同等の取扱がされていたため、庶民の間では三行半(みくだりはん)という呼称が広まった。
(ウィキペディア)
こう書くとずい分ひどく聞こえるけど、「必ずしも夫が好き勝手に易々と離婚できる制度ではなかったとされる(ウィキペディア)」という面もあったらしい。
愛知県の乳岩。
無子にならないように、この観音菩薩に子供を授かることを願ったという。
前に書いた戦国時代の事情とは、ずい分変わっている。
戦国時代には、女性が男性に離婚を言い渡すことがよくあったらしく、日本を訪れたヨーロッパ人宣教師のフロイスが驚いていた。
(ヨーロッパでは)堕落した本姓にもとづいて、男たちの方が妻を離別する。日本では、しばしば妻たちの方から夫を離別する。
(フロイスの日本覚書 中公新書)
けれど、江戸時代になると女性の地位は低くなってしまう。
女性が離婚をしたくても、現実的にはできなかった。
それでも、そんな女性を救済するためにこの縁切寺がもうけらた。
これも、前回までに書いてきた「アジール」の流れをくむものになる。
縁切寺はアジールの残存と考えられ,江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われる
(世界大百科事典 第2版の解説)
江戸時代、女性の地位は低かったことは確かだけど、そんな女性を助けるための制度も用意されていたことは知っておいていいことだと思う。
先ほど書いたことと重なってしまうけど、女性が一方的に差別されていたというわけではない。
ここから、外国人がよくビックリする日本の「女性専用車両」について書こうと思ったけど、その前にインドの女性の地位について次回書きたい。
よかったら、こちらもどうですか?
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宗教と女性差別③キリスト教(アクィナス)の女性観「女は失敗作」
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