水戸光圀の「日本初」 餃子、牛乳酒、黒人と北海道探検…

 

10月14日は1690年に、徳川家康の孫で水戸藩の藩主だった水戸光圀(みつくに)が、幕府から「お疲れさまでした」と隠居の許可を得た日。
これで光圀は大名を引退し、息子がそれを継いだ。
ちなみに、光圀の「圀」という漢字はとても特殊で、これは中国史で唯一の女帝・則天武后(624~705)が作った新しい文字、いわゆる「則天文字」のひとつ。
國という漢字には「惑(まど)う」があって縁起が悪いということで、則天武后は「圀」という文字に変更したという。
理由は知らないが、水戸光国は50代のときに「光圀」へ名前を変えている。
水戸黄門として有名なこの人物は、さまざまな「日本初」を体験しているので、今回はそれを紹介しよう。
あくまで「とされる」ということで、ハッキリしていない部分もある。

 

水戸光圀が生きていたころ、中国では天地がひっくり返った。
李自成の乱が起きて1644年に明王朝が滅亡し、その後に李自成が駆逐され、満州族の新王朝・清朝が成立。
しかし、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という安西先生の教えのように、明の遺臣たちはネバーギブアップの精神で祖国復興を願い、清を追い出して明朝を再建するため抵抗活動を開始した。
その流れで、儒学者の朱舜水(しゅ しゅんすい)が日本請援使として日本へやってきて支援を訴える。

「困った時の日本」は7世紀にもあった。
朝鮮半島で百済が滅亡すると、遺臣たちは日本(倭国)に救援を求めてきて、日本がそれに応じて兵を出し、唐&新羅の連合軍と戦ったがボロ負けしてしまった。
この「白村江の戦い」のトラウマもあったのか、江戸幕府は朱舜水の要請を断り、明朝復興のために清を敵に回すことはしなかった。

 

朱舜水は日本で亡くなり、今の東京大学の中には「朱舜水先生終焉之地」と記された碑がある 。

 

朱舜水は水戸光圀の保護を受けてそのまま日本に住みつき、儒学を教えるようになる。そんな交流から、さまざまな中国の食文化が日本に伝わった。
その一つが温かい牛乳に酒と砂糖を入れた「牛乳酒」。
牛乳酒は中国の薬膳(中国の伝統医学に基づいた食事)でぜいたく品とされていて、これを初めて飲んだ日本人が水戸光圀だ。
光圀は牛を放牧し、牛乳酒や牛乳を煮詰めて白牛銘を作って飲んでいた。この白牛銘がチーズで、これを食した日本人は光国が日本初とされる。

*古代の日本で作られた「蘇(そ)」という乳製品をチーズとする考え方もあり。

日本で流行る古代の乳製品「蘇」/チーズ不足で不満の外国人

中国料理に詳しい朱舜水は日本にギョーザも伝えた。
このときのギョーザは鴨肉や松の実などを包んだもので、「福包(ふくつつみ)」という縁起の良い名前だった。水戸光圀は初めてこれを食べた日本人となる。しかし、当時の日本で肉食は禁忌と考えられていて、福包が定着することはなかった。
現在の日本全国にあるギョーザは戦後に広がったもの。

水戸光圀は朱舜水の作ったラーメンを食べたことで、「初の日本人」と言われていたが、ラーメンを初めて食べた記録はその約200年前にあったため、今ではその称号は水戸光圀のものではない。

 

水戸光圀はかなり好奇心旺盛&アクティブな人で、日本で初めてギョーザ、チーズ、牛乳酒を口に入れただけでなく、オランダの靴下を履いたり、ワインを飲んだりして西洋的な趣味も持っていた。2人の黒人を雇って蝦夷を探検し、そのまま2人を家臣にした。黒人と北海道へ行った日本人も彼が初めてのはず。
助さん・角さんを連れて、日本各地を旅したというフィクションよりも、事実のほうがすごいかもしれない。
水戸光圀が亡くなった時には、こんな狂歌がはやった。

「天が下 二つの宝 尽き果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」

こんなに愛された大名も日本初かも。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。