【敵が友に】中国の国共合作と日本の薩長同盟の共通点

 

怒りや憎悪の感情はとても強力だから、「嫌いな人の悪口」はぶっちゃけ盛り上がる。だから、好きではない相手でも、共通して大嫌いな人物がいる場合はタッグを組むことができる。
中国と日本でもそんな出来事があって、それぞれの歴史を動かした。

 

1月20日は1924年に、中国で「第一次国共合作」が成立した日。
辛亥革命によって 1912年に清王朝と皇帝が滅んだ後、中国には袁世凱を中心とする北京政府、孫文率いる中国国民党、そして陳独秀や毛沢東らを中心に成立した中国共産党という3つの大きな勢力があり、互いに対立していた。
しかし、当時の中国は欧米列強による植民地化の危機に直面していた。そこで国民党と共産党はまず北京政府を「打倒すべき敵」と認識し、1924年に両党の間で協力関係が成立する。いわゆる「国共合作」だ。

その後、孫文が亡くなり、国民党の指導者となった蒋介石は、軍事力を用いて北京政府を倒す「北伐」を進め、成功は時間の問題となる。
しかし、中国を統治する勢力は1つだけでいいから、今度は共産党が邪魔な存在となった。そこで国民党は 1927年に上海クーデターを起こし、中国各地で多くの共産党員や支持者を逮捕・処刑した。正確な数字は不明だが、上海だけで約 300人が殺害され、約 500人が逮捕されたという説もある。
これで共産党は大打撃を受け、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は内戦状態(第一次国共内戦)に突入した。一方で、1928年には北伐軍が北京政府を倒し、国民党が事実上の支配者となる。しかし、最終的に国民党は中国大陸から追われ、台湾に逃げ込み、中国は共産党の統治下となった。

 

本来は敵同士でも、共通の敵がいて大きな目的が一致すると、頼れる“トモ”になることがある。中国の国共合作を日本の歴史で例えるなら、薩長同盟が思い浮かぶ。
幕末、薩摩藩は開国論を支持していたが、長州藩は外国を打ち払う攘夷論を唱えていて、日本を想う気持ちは同じでも、両者の価値観や考え方は大きく違っていた。
さらに、1864年の禁門の変では両藩が戦い、敗れた長州藩は「朝敵」とされてしまう。これに激怒した長州人は履物の底に「薩賊会奸」と書き、それを踏みつけて歩くほど憎悪を募らせたという。
薩摩と長州の敵対関係は決定的だった。

しかし、時勢は変わり、薩摩藩も長州藩も徳川幕府を共通の敵とみなし、これを倒さないといけないと考えるようになる。坂本龍馬という天が日本に与えた仲裁人の努力もあり、両者が向かい合って話し合いをした末、1866年に因縁の京都で和解し、同盟を結んだ。
幕府を倒すために薩摩と長州がタッグを組んだ流れは、北京政府を倒すために国民党と共産党が手を組んだことよく似ている。
日本と中国が西洋列強によって、植民地化される危険があったという環境も同じ。そんな外圧から、国を想う気持ちが高まり、「奇跡の和解」につながった。

ただし、薩長同盟と国共合作には大きな違いがある。中国では国共合作が崩壊し、国民党と共産党が内戦に突入した。一方、日本では幕府という「ラスボス」を倒した後、薩摩と長州は一体となり明治政府を樹立し、日本を近代国家へと生まれ変わらせた。
この成功の背景には、薩長両藩の上に天皇がいて、日本中の人々が明治天皇を尊敬していたことがある。
中国では辛亥革命で皇帝を廃してしまったため、国民党と共産党をまとめる存在がいなかった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。