1月30日は、1649年にイングランドで国王チャールズ1世が処刑された日。このときイングランドでは清教徒革命(イングランド内戦)が行われていて、クロムウェル率いる軍が国王軍を打ち破り、議会派を勝利に導いた。クロムウェルによって、チャールズ1世は多くの国民が見守る中で、斧で首を切断された。
(形式的なものだろうけど、裁判が開かれて、チャールズ1世は死刑判決を受けている)
この革命で、イングランドから国王がいなくなり、イギリスの歴史の中で唯一の共和制「イングランド共和国」が誕生。しかし、クロムウェルが亡くなると、「やっぱり王様が必要だ」と思う空気が広まり、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が即位して、イングランドは再び君主制に戻った。
そして、クロムウェルに対する憎しみが高まり、1661年1月30日、チャールズ1世が処刑された日に、クロムウェルの墓が暴かれ、遺体は絞首刑にされた後、同じように斬首された。
生きていたころは、国王に匹敵する絶大な権力を持っていたクロムウェルも、死んだ後は評価が一変し、「王殺し」や「簒奪者」と非難されてサンドバッグ状態となる。しかし、時が流れて価値観が変わると、クロムウェルに対する見方も変化し、19世紀には、彼を英雄とみなす歴史家も現れた。
現在のイギリスでも、クロムウェルに対する評価は分かれている。
AIに英語で質問すると、
・彼はチャールズ1世の専制政治と戦った英雄である。
・近代イギリスの基礎を築いた自由の擁護者である。
という理由で、クロムウェルを「英雄(Hero)」とする意見もある。
その一方で、
・彼は宗教的狂信者であり、独裁者になりたかった。
・自分に反対する者を虐殺した暴君である。
といった理由で、クロムウェルを「悪者(Villain:ヴィラン)」とみなす見方もある。
*最近では、ディズニーの悪役キャラ(ディズニー・ヴィランズ)や「ヒロアカ」の影響で、「ヴィラン」の言葉がの日本に広まりつつある。
チャールズ1世の処刑における彼の言動については、今でもイギリスで物議を醸している(still controversial)という。
さて、こんなクロムウェルのような人物を日本の歴史で探すと、やっぱりあの人物が思い浮かぶ。
クロムウェルの首は、ロンドンで 20年以上も晒(さら)されていた。
1333年、後醍醐天皇が武士に奪われた政権を取り戻すため、鎌倉幕府を打倒する兵を挙げた。
それに対し、幕府は足利高氏に討伐を命じたが、高氏は途中で天皇側に寝返り、幕府を倒すことを決意。高氏は幕府崩壊で大きな功績を残したため、後醍醐天皇は高く評価し、自身の名前「尊治(たかはる)」から一字を与えた。
こうして彼は「足利尊氏」になる。
しかし、蜜月はすぐに終わり、2人は敵どうしになる。
1335年に尊氏は後醍醐天皇側と戦い、勝利すると、政権を奪い室町幕府を成立させた。一方、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野(奈良)へ逃れ、新しい朝廷(南朝)を樹立した。これにより、日本は南北朝時代へ突入する。
ということで、天皇側と戦って勝った足利尊氏は、国王軍を撃破したクロムウェルと重なる。政権を奪い、自分が最高実力者となった点も同じ。ただし、尊氏は後醍醐天皇を京都から追い出しただけで、処刑することはなかった。
さらにこの2人は「後世の評価」という点もそっくりだ。
江戸時代になると、天皇に反旗を翻した尊氏は「逆賊」として非難され、徹底的に嫌われた。逆賊とは、主君に反逆した悪人のこと。このネガティブな評価はずっと続く。
クロムウェルは、死後に墓を暴かれ、遺体を引きずり出されて首を晒されたが、尊氏はそこまでひどい扱いは受けなかった。しかし、尊氏も死後に名誉を傷つけられる事件が起きた。
幕末になって尊王思想が高まると、等持院に安置されていた足利尊氏の木像と位牌が持ち出され、「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」という罪状とともに、三条河原で首が晒された。(足利三代木像梟首事件)
木像とはいえ、将軍クラスの人間が農民や浪士といった身分の低い者に首を切断され、晒されたのはこの事件だけだろう。
しかし、明治・大正時代になると、尊氏に同情する人や高く評価する人が現れた。戦後には、「彼は強い武士で指導力もあり、将軍として立派な人物だった」、「200年以上続いた室町幕府の基礎を築いた」などと評価され、英雄視されるようになり、NHKの大河ドラマ『太平記』では尊氏が主人公として描かれた。
ヴィランからヒーローへの「手のひら返し」も、クロムウェルと似ている。しかし、もし尊氏が後醍醐天皇を処刑をしていたら、きっと永遠の逆賊になっていた。
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