2月6日は、シンガポールにとって「誕生日」と言える重要な日。今回はそれを祝って、この国が成立した歴史について書いていこう。
シンガポールは東京 23区よりやや大きい都市国家で、約 600万人が住んでいる。
2024年 10月に国際通貨基金(IMF)が発表したランキングによると、1人当たりの GDPはシンガポールが世界5位で、38位のわー国を大きく引き離し、アジアではナンバーワンの経済大国となっている。
シンガポールとは、まさに小さな巨人だ(昭和感)。
この国の「最大」といえる特徴は多様性で、そのカオスっぷりは祝日を見れば分かる。中国の春節(旧正月)、ハリ・ラヤ・プアサ(イスラム教のラマダン明けの祭り)、釈迦の誕生祭、ディーパバリ(ヒンドゥー教の祭り)、クリスマスがシンガポールの祝日に指定されているのだ。
ちなみに、日本の祝日で特定の宗教の祭りは1日もない。
最近、SNSを見ていると、日本に住んでいるインド人がこんな報告をしていた。
「良いものを見つけた! 目の前でオレンジから45秒で新鮮なジュースが作られた。完全に自然なテイストですごくおいしい! この品質からすると値段は高くない。」
彼が絶賛したのは、2023年にシンガポールからやって来た「生搾りオレンジジュースの自販機」(IJOOZ)。値段は1杯 350円ナリ(場所によって違うかも)。
2024年6月の時点で国内に約 500台が設置されているというから、日本でいま人気爆発中らしい。「オレンジジュース界の黒船」だ。
一年中暑いシンガポールでは、外出中に、冷たい生搾りオレンジジュースを飲めることはきっと歓迎される。日のように冬がないから、季節に売上が左右されることもないと思う。
「常夏のフルーツ天国」というシンガポールの条件は昔から変わっていない。その地にさまざまな人たちがやってきて、現在に続く独自の歴史が築かれた。
19世紀、現在のシンガポールに上陸したイギリス人のラッフルズは、その地理的な重要性に注目した。シンガポールはマレー半島の先端にあり、大英帝国にとっては、中国と植民地のインドを結ぶ重要な貿易ルートの拠点にちょうど良い。さらに、密林からは、船の修理用の木材を手に入れることができる。
そんなことから、ラッフルズはシンガポールに自由貿易港としての大きな可能性を感じた。1819年2月6日、彼は現地の支配者であるジョホール王に毎年金を支払うことと引き換えに、この地の当地を認められたことで、現代のシンガプーラ爆誕。イギリス領となったことで、それまでシンガプーラと呼ばれていたのが、英語風の「シンガポール」と改められた。
1824年には王からシンガポールを譲り受け、正式にイギリスの植民地となる。
ジョホール王にとってシンガポールは遠く離れたへき地で、あまり魅力を感じず、ハッキリ言えば「どうでもいい場所」だったと思われる。ラッフルズがシンガポール島に到着したとき、人口は 1000人ほどしかいなかったという。
しかし、イギリスの植民地になると激変する。
マラヤ(マレー半島南部を中心とする地域)、中国、インド、その他アジアの地域から絶えず移民がやって来て、シンガポールの人口は 1871年までに約 10万人に達し、その半数以上は中国人だった。
Due to continual migration from Malaya, China, India and other parts of Asia, Singapore’s population had reached nearly 100,000 by 1871, with over half of them Chinese.
イギリス植民地時代に、さまざまな民族や宗教が入り交じる現在のシンガポールの基礎ができあがる。ただ、19世紀後半のシンガポールでは、50%以上を中国人が占めていたことからも分かるように、人口の上では中国人が支配的だった。
それから時は流れ、太平洋戦争が始まると、1942年に日本軍がこの地のイギリス軍を破り、1945年まで占領することとなる。
1945年8月、日本の敗戦によってシンガポールにいた日本軍は撤退し、それと入れ替わるように、イギリスが戻ってきやがった。そして、再び植民地支配が始まった。
その後、1958年にイギリスの自治州となり、イギリスの支配を脱し、住民による統治が認められた。翌年の 1959年に選挙が行われ、中国系のリー・クアンユーがシンガポールの初代首相となる。シンガポールは1963年にマレーシアに加わり、その一部となることでイギリスからの完全独立を達成。
しかし、1965年には、マレーシアから追い出される形で、シンガポールは分離独立し、現在のような都市国家となった。リー・クアンユーにとってこれは最悪の事態で、独立の決定を国民に伝えたとき、彼は涙を流していた。
失礼を承知で言うと、まるで「クーリングオフ」のように、短期間でシンガポールがマレーシアから、追い返された理由は中国系住民の多さにあった。マレー系と中国系が対立し、1964年に人種暴動が発生し、多くの死者を出した。
これでマレー系と中国系の共存は不可能と判断され、シンガポールはマレーシアから追放される。シンガポールは嫌でも独立するしかなかった。
現在では、こんな悲劇を二度と繰り返さないように、多民族国家のシンガポールとマレーシアでは国内の民族が平等に尊重されている。
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