日本史の常識は世界史の非常識 京都御所の壁が低いワケ

日本人のキャラを表す言葉には「和をもって貴しとなす」や「出る杭は打たれる」がある。日本人は協調性を大切にし、他人と違った言動はあまりしないはずなのに、好きな歴史上の人物のアンケートをすると、必ずと言っていいほど織田信長が上位にランクインする。
2020年に放送されたテレビ番組の「戦国大名総選挙」では、5位が毛利元就、4位が上杉謙信、3位が豊臣秀吉、2位が武田信玄、そして1位が織田信長だった。
温和な性格の反動で、「おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる! あこがれるゥ!」という理由で、織田信長は尊敬されているのかも。

 

きょう4月4日は1573年に、織田信長の軍が将軍・足利義昭(あしかが よしあき)のいる二条御所を取り囲んだ日だ。
義昭は信長のおかげで将軍になれたようなもの。本人もそのことはよく知っていたから、信長を「天下武勇第一」と絶賛し、足利家の家紋の使用を許可した。
その後、二人は対立し、義昭は信長を敵視して各地の大名に「ヤツを討て!」と軍事行動をうながす。その結果、武田信玄や朝倉義景、浅井長政などが応じた。

しかし、信長は「持っている」。反信長勢力の中心人物だった武田信玄が病気で亡くなり、人生でも最大級のピンチを切り抜けると、今度は信長のターン。彼は軍を率いて京都に入り、義昭のいる二条城を取り囲む。結局、天皇を仲介して和睦という形で終わったが、実質的には義昭が信長に降伏したも同然だった。
そして、同じ年の7月、槇島城(まきしまじょう)の戦いで織田信長に敗北し、足利義昭は京都を追放され、約240年間続いた室町幕府は滅亡した。
*室町幕府がいつ滅亡したかについては他の説もある。

織田信長は幕府を滅ぼし、天下統一の直前まできたところで、明智光秀に裏切られ、最期は1582年に「本能寺の変」で自害した。戦国時代の末期には多くの豪傑が現れ、力関係も激変したが、そんな嵐の中でも無風の真空地帯があった。

 

インドのマハラジャ(王)の城

 

昔、京都御所へ行ったとき、ガイドが「とても日本らしいこと」として、御所を囲む壁の低さを強調し、今でもそれが印象に残っている。
日本の歴史では、将軍は暗殺されたり追放されたり、幕府は鎌倉・室町・江戸と移り変わったりしたが、天皇家はそんな争いや流転とは無縁で、この日本の真の統治者にはどんな武将も手を出さなかった。

歴史的に、中国やインド、ヨーロッパでは、皇帝や王の住居は見上げるような高い壁に囲まれている。君主が敵軍から攻撃を受けることを想定し、その居城の防御力を最大限に高めるのは、世界的には当然のこと。
しかし、日本史の常識は世界史の非常識で、京都御所の敷地を囲む壁はとても低い。それでも問題がなかったのは、信長軍に二条御所を取り囲まれた足利義昭と違って、天皇を「敵」と見なして攻撃し、滅ぼそうとする者がいなかったからだ。
壁の低さは天皇の権威の高さを示していると、ガイドは誇らしげに語った。
たしかにこれは「日本らしさ」を表している。

 

 

日本 「目次」

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