歴史的に日本の天皇は中国では皇帝に相当する。
基本的にはそうなんだけど、見方によっては日本の将軍が中国の皇帝になって、天皇は中国史にはない唯一無二の存在になる。
今回はそんな話ですよ。
きょう6月30日は、日本の歴史で一つの大きな時代が終わった日。
「いつやるか? 今でしょ! 」と上野国(群馬)で兵を挙げた新田 義貞(にった よしさだ)の軍が鎌倉幕府の軍をつぎつぎと撃破しながら進撃し、兵を吸収して20万の大軍になって鎌倉へ攻め込む。
鎌倉では、北条高時をトップとする幕府軍と新田軍による壮絶な戦いが展開されて、1333年6月30日に高時ら北条家の人々が自害し、約150年つづいた鎌倉幕府は消滅した。
この戦いが約600年後によみがえる。
昭和31年(1956年)に東大のチームが鎌倉市の由比ガ浜で発掘調査を行ったところ、910体以上の人骨が見つかった。(F3 鎌倉材木座中世遺跡出土人骨)
その骨には刀や槍による攻撃を受けた痕(あと)や、動物にかじられた痕跡があり、お経らしい漢字が書かれた頭蓋骨もあった。
これらの人骨から、鎌倉幕府がどのように滅亡しかが見えてくる。
新田義貞による掃討作戦の後に、死体が放置され、それを野犬化した闘犬により肉を喰い荒らされた、またそれを僧侶が埋葬した、という事実が浮かび上がる。
新田義貞
今月6月に古代中国で、日本と深い関わりのあった隋が滅亡した。
聖徳太子が遣隋使の小野妹子を派遣し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と天皇と中国皇帝を「天子」として対等に並べる手紙を渡して、隋の第二代皇帝・煬帝を怒らせた。
その煬帝は100万人を動員して大運河を建設したり、3回の戦争(高句麗遠征)を行なったりして、国民や兵士を疲弊させて大きな恨みを買うようになる。
「煬帝」は死後につけられた名前で、「煬」とは「天に逆らって民を虐げる」という意味だとか。
618年に反乱が起こると、泣き叫ぶ12歳の息子を家臣に斬り殺された後、50歳の煬帝も家臣2人に真綿で首を絞められ、苦しみながら亡くなった。
「次の人生 命のやりとりなどの無い 平和な世界へ 生まれ変わりたいものだ」
そう言って、21世紀の渋谷に転生したのが『パリピ孔明』に出てくる孔明さん。
「生まれ変わっても 皇帝の家には生まれ変わらぬように」
そう言い残して619年に死んだのは、隋の第4代皇帝・恭帝 侗(きょうてい とう)だ。
”皇帝”といっても現代の中国史では、煬帝の孫で3代皇帝の恭帝 侑(きょうてい ゆう)が618年6月18日に、皇帝の位を李淵に譲ったことで隋は滅亡したことになっている。
この李淵が新皇帝になって始めたのが唐王朝。
だから恭帝 侗は名目だけで、中国の歴史では正当な皇帝とみなされていない。
恭帝は家臣の王 世充(おう せいじゅう)に強要されて皇帝の地位を譲り(禅譲)、その後、生きていると邪魔になると思った王 世充から自殺を命じられた。
観念した恭帝は上の言葉を残して毒をのみ込む。
でも、それで死ぬことができなかったから、恭帝は首を絞められて15歳でこの世を去った。
日本と中国の歴史を比べてみると、皇帝とちがって天皇はわりと恵まれている。
臣下から自殺を迫られて、「生まれ変わっても皇帝の家には生まれ変わらぬように」なんて悲しい遺言を残して死んだ天皇はいないし、天皇の自殺や暗殺によって王朝が交替したことは一度もない。
中国の歴史はそんなのばっか。
隋の煬帝や恭帝 侗のような不幸な死に方をした皇帝はたくさんいるし、そうして王朝が滅んだことが中国史では何度も繰り返された。
日本の天皇や王朝にそんなことはなかったが、将軍と幕府ならあった。
鎌倉幕府の源 実朝(さねとも)や室町幕府の足利義政のように、暗殺された将軍は何人かいるし、北条高時のように自害に追い込まれて幕府が滅亡することもあった。
天皇では1人だけ、6世紀に崇峻天皇(すしゅんてんのう)が臣下によって暗殺されたけど、これは例外中の例外。
天皇家は一度も変わらず、その下で将軍や幕府がコロコロ変わるのが日本史で、皇帝や王朝がコロコロのが中国史だ。
その意味では日本の将軍が中国皇帝と同じで、天皇に相当する存在は中国の歴史にはない。
【日本の消防団】現代は“残念”でも、明治の米国人には“英雄”
コメントを残す