タイの歴史にいた「運命のふたり」 タークシンとラーマ1世

歴史には、「運命のふたり」と呼ぶべき特別な関係の人たちがいる。
日本史でいうなら、源頼朝・義経兄弟だ。義経は兄のために平家と戦ったが、最期は兄によって自害に追い込まれた。
イギリス史には、国王ヘンリー8世を父に持つメアリーとエリザベスの姉妹がいる。二人は成長すると、メアリーはスコットランドの女王、エリザベスはイングランドの女王となり、それぞれ一国の君主になった。
しかし、メアリーはイングランドの王位継承者でもあったため、それを原因とするトラブルが起こり、最終的には1587年に、妹のエリザベスによって処刑されることとなった。

タイの歴史にもそんな「運命のふたり」と呼ぶべき人たちがいる。そのうちの1人が、1782年のきょう4月6日に処刑されたタークシン元国王だ。

 

処刑人がオノを振り上げ、メアリーの首を切断しようとしている。

 

18世紀、彼らは貴族の子どもとして生まれ、それぞれシンとトーン・ドゥアンという名前を授けられた。
子ども時代、二人はお互い友人として楽しく過ごしていた。ある日、彼らは中国人の占い師に出会い、「二人の手には幸運の線がある。ふたりとも将来はタイの王になるだろう」と告げられる。しかし、シンとトーン・ドゥアンはその予言を真剣に受け止めなかったという。

they reportedly met a Chinese fortune-teller who told them that both had lucky lines in their hands and would both become kings. Neither took it seriously

Taksin

 

彼らは後にタークシンとチャックリーとなる。
その後、二人はアユタヤ王朝に仕えていたが、アユタヤ朝はビルマに攻められて1767年に滅亡した。アユタヤは徹底的に破壊され、廃墟となったため、タークシンはアユタヤを捨て、自ら王となって南部のトンブリーに新しいトンブリー王朝を建てた。このとき、チャックリーが将軍となり、有能な武将としてタイの各地を平定し、タークシン王を支えた。子どものころ遊んでいた2人が王と将軍になるというのは、まさにアニメのような展開。

 

廃墟となったアユタヤ

 

しかし、タークシン王の精神は次第に不安定になり、仏教僧に自分を「神」として礼拝するよう命じる。仏教僧がそうするのはブッダに対してだけだったから、この命令はタイ社会の常識や価値観からすると、とうてい受け入れがたいものだった。数名の僧がそれを拒否すると、タークシンは怒り、僧の身分を奪ってムチ打ちの刑に処した。
カンボジア遠征中だったチャックリー将軍は、タークシン王が狂気におちいり、クーデターまで発生したことを知ると、遠征を中断して急いで戻り、すぐにクーデターを鎮圧した。そして、1782年4月6日にタークシン王を処刑した。
タイの年代記によると、タークシンは処刑場へ連行される途中、チャクリー将軍に謁見を求めたが、将軍はそれを断ったと記されている。
チャクリーはラーマ1世としてタイの新国王として即位し、チャクリー王朝を始め、それが現在まで続いている。

 

メアリーとエリザベスの姉妹はともに女王となり、最期はエリザベスがメアリーを処刑した。
タークシンとラーマ1世は子どものころは友人で、2人ともタイの国王となり、最期にはラーマ1世がタークシンを処刑した。
それぞれ、イギリスとタイの歴史における「運命のふたり」と言っていい人物だ。ただ、中国人の占い師の話はできすぎていて、“創作臭”を感じなくもないが。

 

 

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