はじめの一言
「好奇心が強く、しつこく質問し、知識欲が旺盛で、質問はきりがありません(フランシスコ・ザビエル)」
(日本賛辞の至言33撰 ごま書房)
今回の内容
・イスラーム教の国の「ラーハ」とは?
・ボクの「ラーハ」体験。
・ラーハの不思議。
・ラーハを体験しに行こう!
・イスラーム教の国の「ラーハ」とは?
前回まで、イスラーム教の国を「日本人旅行者の間で、『世界3大うざい国』と言われている」と失礼なことを書いてきた。
ボク自身は、ムスリム(イスラーム教徒)の友だちがいるし、中東の国も好き。
でも、悪いことを書いた気がしないでもないから、その罪滅ぼしとして、今回は、イスラーム圏の国を旅して、ボクが良かったところを書きたい。
それは、「ラーハ」というもの。
ムスリム(イスラーム教徒)にとって、一番大切なことは「ラーハ」と呼ばれるものだという。
かれらがもっとも重視しているのは、仕事でも遊びでもない。ラーハとよばれるものなのである。
(イスラームの日常世界 片倉ともこ)
著者の片倉ともこさんは、この「ラーハ」を次のように説明している。
アラビア語のラーハの概念は、イスラームとともにアフリカ大陸にもわたり、スワヒリ語にもなっている。 ここでもラーハは積極的な意味をもち、「しあわせ」、「いこい」という日本語に近いという。
わたしは、仮に、「ゆとろぎ」という訳語を考えてみた。 「ゆとり」と「くつろぎ」をいっしょにした言葉である。
ゆとろぎの時間をたくさんもつことが人間らしい、いい生き方なのである。
この「ラーハ」は、アラブ人の日常生活のいろいろな場面で見られるという。
具体的には、友だちや知人を訪れることやおしゃべりすることも「ラーハ」になる。
ということは、日本で日本人がカフェで友だちとおしゃべりを楽しむことも、アラビア語で「ラーハ」になるんだろう。
・ボクの「ラーハ」体験
外国人の旅行者ができるラーハ体験は、買い物だ。
ものの売り買いも、できれば、ラーハ的にすすめて楽しむのが好きである。店に入ると、アラブ商人はすぐに、「おのみものは何にしましょうか」と、愛想よく客をもてなす。(同書)
ボクが、エジプトやトルコなどのイスラーム教の国に行ったときには、確かにこれがあった。
じゅうたん屋やお土産屋で、「よく来た!ここに座れ。何を飲む?ティーか?コーラか?」ともてなされたことが何回かある。
ただ、あのときは、「ラーハ(ゆとろぎ)」というものを知らなくて、この歓迎を誤解していた。
「これは、ティーを飲むまではオレをこの店にいさせるということか。その間に、たっぷり商品を売りつけようとするのだな」
サービスというより、客を店から出させないための「拘束手段」と思っていた。
今思えば、あれがラーハだったと思う。
片倉ともこさんは、次のように書いている。
ごちそうになったからには、いやがおうにでも何か買わねばならないなどとおもわなくてよい。すすめられたコーヒーやコカコーラなどで、ゆっくり喉をうるおしてから、おもむろにプレイボール。(同書)
プレイボールとは、買い物交渉の始まりのこと。
そこには定価もなければ、一物一価原則もない。あるものは「いい値」だけ。
それは買う値段ではない。
かけあいは、そのいい値の一割からはじめる。
「まけさすなどとは、みみっちい」などと体裁にこだわることもなく、値切るということにうしろめたさや、はずかしさなど、みじんも感じる必要もない。(同書)
ここからの値段交渉は、中東を旅するすべての旅行者がすることだろう。
確かに中東での買い物で、値切ることに後ろめたさや恥ずかしさなんて感じてはいられない。
そんな余裕もない。
・ラーハの不思議。
ボクがエジプトやトルコを旅してときどき感じたのは、「これは仕事なのかプライベートなのか?」という疑問。
さっきも書いたけど、「よく来た!」とトルコのじゅうたん屋やエジプトのお土産屋で、ティーやコーラを出されてその後ずっとおしゃべりをしていた。
「いつエジプトに来た?」
「エジプトはどうだ?」
「日本のお金は持っているか?見せてくれないか?」
という具合に、おしゃべりばかりしていて、商品のセールスになかなか始まらない。
15分くらい無駄話をしてからやっと商品をもって来て、「これは、この店だけでしか買うことができない。お前はオレの友だちだから、特別に安くしてやるよ」
と、相場の5~6倍のいい値を言ってくる。
この後は、人によって違う。
「何で買わない?ウチの店の物は他の店のものとは、質が違う!ここで買っていけ」としつこく迫る人がいれば、「そうか。また来い」とあっさり引き下がる人もいる。
エジプトのハルガタという街では、こんなお土産があった。
ティーを出してもらって20分くらいおしゃべりしてたけど、欲しい物がなかったから何も買わないで出て行ことにした。
エジプト人は怒ることもなく、「また来い。フレンド」と握手して終わり。
次の日、この店の前を通ると、このエジプト人が店番をしていて、「来い。ティーをやるよ」と店の中に招き入れて、また30分くらいおしゃべりをする。
この間、ティーのおかわりもくれた。
このときも、商品のセールスを一切しなかった。
そして、「また来い。フレンド」と言って送り出してくれる。
こういうことが、エジプトの首都カイロでもあった。
店に入れられて、ティーを出される。
「いつおしゃべりが終って、ビジネスが始まるのだろう」と思っていると、ほとんど商品を売ろうとせずに、「また来い」とそのまま店を出される。
今のエジプトのことは、知らない。
けれど、20年前は「しつこくて強引なうざいエジプト人」も確かにいたけど、売る気があるのかないのか分からないエジプト人の商人もいた。
ボクが中東を旅した時は、このギャップが印象深かった。
店でほとんどセールスをしないで、旅行者との話を楽しむだけ。
ボクの方も、店に行ったのか友だちの家に行ったのかよく分からないという、不思議な感覚をもつ。
日本では、一般にプライベートと仕事は、はっきり分けられていて「公私混同」はダメ。
でも、中東のイスラーム圏の国では、プライベートと仕事の分かれ目が分からない。
宿のスタッフも、客というより友だちのようにフレンドリーに接してくる。
今思えば、エジプトを始めイスラーム教の国では、公私という分け方がなくて、生活や人生がすべて「ラーハ」に包まれいているのだと思う。
「ゆとり」と「くつろぎ」をいっしょにした言葉である。ゆとろぎの時間をたくさんもつことが人間らしい、いい生き方なのである。(同書)
アラブ人(イスラーム教徒)には、仕事もプライベートも、このラーハの中にあると思う。
・ラーハを体験しに行こう!
この本では、中東でこの買い物でのラーハが少なくなっているという。
最近では、こういう人と人とのかけあいを楽しむ昔ながらの市場にかわって、近代的なスーパーマーケットがふえてきた。
品物をだまってえらび、レジで金を払って出てくる。スーパーでの買い物にはラーハがない、つまらないという。
売買だけのショッピングは、ラーハではなく、仕事になりさがっているとなげく人も多い。(同書)
この「イスラームの日常生活」という本は、1991年に発行されている。
近代化がすすむ中東では、スーパーマーケットが増えた分、買い物でのラーハがなくなっていると思う。
とはいえ、このラーハがまったくなくなることはないだろう。
中東に行ったら、ぜひこのラーハを楽しんでみよう。
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