ローマ法王と皇后陛下を動かした少年・戦後最大の危機から核軍縮へ

 

この写真を見たことありませんか?

 

 

これは原子爆弾が投下された後の長崎で撮られた一枚で、原爆被害者の写真としてはもっとも有名なものの1つだ。

この男の子が背負っている赤ん坊はすでに死んでいる。
ここは火葬場で、直利不動で立っているこの少年は、弟の死体を焼く順番を待っていた。
それでこの写真は「焼き場に立つ少年」と言われる。

これを撮影したアメリカ人のジョー・オダエルはこう書いている。

この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。

「トランクの中の日本 (小学館)」

 

この少年がローマ法王の心を動かした。
最近、ローマ法王フランシスコがこの写真をカードに印刷して配るように指示を出したことが世界中のメディアで報じられた。

産経新聞の記事(2018.1.1)にはこう書いてある。

カードには法王のサインと共に「少年の悲しみは、かみしめた唇とにじんだ血に表れている」という説明が記された。

ローマ法王が被爆写真の配布指示 長崎で撮影「焼き場に立つ少年」

このカードの裏には、「戦争が生み出したもの」という言葉とローマ法王のサインがあるという。
法王フランシスコが、ある特定の写真の配布を指示したのはこれが初めてだ。

以前からローマ法王は、核兵器のない世界の実現を訴えていた。
この少年の姿を世界中の人に見せたかったのも、その考えによるものだろう。

 

この写真は皇后陛下の御心も動かしている。
宮内庁ホームページから。

死んだ弟を背負い,しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており,その姿が今も目に残っています。同じ地球上で今なお戦乱の続く地域の平和の回復を願うと共に,世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。

皇后陛下お誕生日に際し(平成19年)

 

では、この写真を見た外国人の反応を紹介しよう。

フィリピン人:It is unbearable to think that children carry the heavy weight of the consequences of the actions they didn’t even partake
(子供たちは何も関わっていないのに、結果の重みを背負わされる。本当に耐えられない。)

アメリカ人:Civilians always pay the price for bad leaders
(いつも市民は悪い指導者の犠牲になる)

カリブ人:カリブ人:You know, people said “forgive but don’t forget”
Be a good citizen and let’s hope there’s no more war.
(「許そう。でも忘れない」と言います。良い市民になって、戦争のないを願おう。)

 

 

「平和は本当に大切だ」「戦争はいけない」ということは誰でも知っている常識だから、改めてそれを書こうとは思わない。

だからここでは、第二次世界大戦後に、核兵器の使用や第三次世界大戦の可能性がもっとも高まった瞬間について書いていこうと思う。

それが1962年におきた「キューバ危機」。

キューバ危機

米ソ間の戦争が危惧されるにいたった、キューバを巡る対立。

「世界史用語集 (山川出版)」

このときソ連は、キューバにミサイル基地をつくろうとしていた。
でもこれは、アメリカにとってはたまらない。

 

キューバにミサイル基地ができたら、アメリカの全都市がソ連の核ミサイルの攻撃範囲内に入ってしまう。
アメリカはこのミサイル基地建設を、絶対に阻止しないといけない。
ここでアメリカとソ連が鋭く対立した。

くわしいことはこの記事を読んでください。

平和について③キューバ危機とデタント・核戦争と核軍縮

 

結局、ソ連がミサイルを撤去したことで、アメリカとソ連の戦争は避けられた。

でもこのキューバ危機は、人類にとって戦後最大の危機だった。
アメリカとキューバの歴史教科書には、それぞれこう書いてある。

世界中の人々が、核による第三次世界大戦の予測に恐怖しました

「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書 (ジャパンブック)」

第2次世界大戦以降、人類はこれほど危険な瞬間を生きたとはない

「キューバの歴史 (明石書店)」

 

キューバ危機を乗り越えた後、世界では平和を求める動きが広がった。

アメリカとソ連はこのとき核戦争の恐怖を感じたことで、今回のような緊急事態にそなえて「直通通信(ホットライン)」を結ぶことにした。
米ソ両首脳が直接話をすることができるようになったのは、このときからだ。
皮肉なことだけど、米ソが戦争寸前まで対立したことで、両国の関係が良くなった。

 

世界的にもこの後、核実験を禁止したり核兵器の拡散を防止したりする条約が結ばれるようになった。
例えば、1968年には「核拡散防止条約(NPT)」が結ばれて、「米・ソ・英・仏・中」以外の国が核兵器を持つことを禁止された。

 

核軍縮の流れはその後も続き、70年代のデタント(緊張緩和)に結びつく。

デタント

1970年代の米ソ間で進められた核軍縮などの対立緩和

「世界史用語集 (山川出版)」

 

「戦争はいけない」「平和は大事」ということは正しいけれど、そうした言葉が力を持つためには、ある程度の軍事力が必要だ。
必要最低限の軍事力は、世界中の国が持っている。

自国を守ることはもちろん、「あの国を攻撃したら、こちらも大きなダメージを受ける」と他国に思わせるぐらいの軍事力を持ったうえで、話し合いで対立を解決したほうがいい。

人類が核戦争の危機を乗り越えて、核軍縮に向かったきっかけとなったキューバ危機を見ると、本当にそう思う。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。