日本に来るムスリム(イスラーム教徒)は増加中。
2018年には、100万人をこえるかもしれない。
日本ではいま、各地でムスリムを受け入れる態勢を整えつつある。
2017年には、東京駅にムスリムのための礼拝所ができた。
そして最近では、伊勢神宮の近くにもムスリム用の礼拝所が設置されることが発表された。
くわしいことはこの記事を見てほしい。
このことにはネット、で賛成・反対いろいろな声があったのだけど、意外に多かったのがこんな声だ。
「イスラーム教徒が伊勢神宮でお祈りするの?」
ということで今回は、日本で進んでいる「ムスリムのおもてなし」に触れてから、ボクなりにこの疑問に答えていこうと思う。
イスラーム教の国・イエメンのおっさん。
イエメンには飲酒運転を禁止する法律がないらしい。
基本的にイエメンではお酒を売ってないから、飲酒運転そのものがないとか。
まずはイスラーム教ってなんだ?
高校の世界史ではこう習う。
イスラーム教
7世紀前半、ムハンマドが創始した宗教。
原義はアラビア語で「身を委(ゆだ)ねること」、転じて「唯一神(アッラー)への絶対服従」を意味する。アラブ人の征服活動とともにアラビア半島の外へ広がり、さらにムスリム商人の商業圏拡大ととも広がった。「世界史用語集 (山川出版)」
アラビア語でポカリスエットと書いてある。
ムスリムは豚肉やアルコールがダメだけど、これはOK。
インドネシアでは、「ラマダンの水分補給用にピッタリ!」みたいな感じでポカリを売り出していた。
伊勢神宮近くのムスリム礼拝所は、来年の夏ごろにできるらしい。
といっても、そこはムスリム専用の場所ではない。
伊勢神宮の近くにある観光案内所の一部を改修して、ムスリムが礼拝できるところをつくる予定だ。
公共施設の中にあるから、ふつうの日本人が入ることもできる。
だから、イスラーム教徒の礼拝もできる「多目的ホール」のようなものだろう。
「公共施設に礼拝スペースをつくる」ということは、東京の台東区がすでにやっている。
弁護士ドットコムの記事から。
同区ではムスリムが「礼拝をしたい」という問い合わせを受けた場合に、台東区立浅草文化観光センターの一部の使用を許すという対応もしている。さらに、実現に至ってはいないが、礼拝に必要な、聖地メッカの方向を示すコンパスと礼拝の儀式に必要なマットを貸し出すことも検討したという。
ムスリムを受け入れる態勢は、東京でのやり方が地方に広がっていくのだろう。
大阪駅や名古屋駅にムスリム礼拝所ができるのは時間の問題かと。
それと知ってましたか?
東京ディズニーリゾートもムスリムが礼拝できるように配慮している。
「halalmedia」にそのことが書いてある。
東京ディズニーリゾートでは、お客様のご要望に合わせてお祈りスペースを提供することがあります。
場所は状況によって異なることがございますのでご了承ください
さてここからは、「イスラーム教徒が伊勢神宮でお祈りできるの?」という質問について。
このことに関して、ネットではこんな声が上がっていた。
・イスラム教が異教徒な礼拝をしても良いのかね??
・意味わからん。
ムスリムが伊勢詣ですんの?
・伊勢参りするのあの人ら
・イスラム教徒が神社に参拝していいのか?
・一神教じゃないの?
ムスリムであれば、伊勢神宮で礼拝をすることはできない。
ムスリムとは「神(アッラー)に帰依した人、服従した人」という意味だから。
まえにインドネシア人のムスリムと伊勢神宮に行ったことがある。
彼はふつーに内宮の中を歩いていたし、ふつーに手水所で手を洗っていた。
「無宗教の日本人と同じじゃん」と思って彼の様子を見ていたら、彼は「正宮」に向かって頭を下げて手をたたいていた。
これには「え?」と驚いた。
イスラーム教徒がここまでしていいのか?
「イスラーム教徒が日本の神社で、神様に頭を下げたり柏手(かしわで)を打ったりしても大丈夫なの?」と聞くと、彼はこう言う。
「大丈夫です。これは礼拝ではありませんから。日本の文化を尊重して、日本人と同じ動作をしただけです」
彼は体の一部を動かしただけ。
心がこもっていないから、これに礼拝の意味はまったくない。
だからノープロブレム。
これは彼個人の意見ではなくて、イスラーム教の勉強会でそう教わったという。
彼は毎週日曜日にイスラーム教の勉強会に参加していて、そこで「日本ではこれをやっていい。これはダメ」ということを学んでいる。
イスラーム教の専門知識のある人が「お寺や神社では、日本人と同じように手を合わせたり頭を下げたりしても、イスラーム教の教えには反しない」と説明していたらしい。
だから彼も、安心して日本の神様に頭を下げることができた。
ただ、これは彼が行っている勉強会での話で、ほかのところでは分からない。
イスラーム教は厳しいように見えて、けっこう柔軟性がある。
おまけ
意外だったのは韓国人だ。
韓国人3人と清水寺に行ったときのこと。
清水寺の仏像を前にして、1人がこんなことを言う。
「これは素晴らしい仏像ですね。でも私はキリスト教徒だから、手を合わせることができません。いいところに就職できるようにお祈りしたいのですけど。本当に残念です」
別の韓国人もキリスト教徒で、彼も仏像を「鑑賞」することしかできなかった。
でも、さらに別の韓国人はちがった。
その女の子もキリスト教徒だけど、仏像に頭を下げて手を合わせていた。
思いっきり礼拝している。
さらにおみくじを引いて、お守りまで買っていた。
日本人と同じように清水寺をエンジョイしている。
「私はむかし教会に行ってましたけど、いまは全然行ってません。一応キリスト教徒ですけど、日本人みたいな無宗教ですから、問題はありません」と言う。
インドネシア人のイスラーム教徒は神様に頭を下げることはできた。
でも、韓国人のキリスト教徒にはそれができない。
これは意外だった。
おまけ2
イエメンの首都サヌアの様子。
拡声器で「お祈りの時間ですよ~。モスクに来てお祈りをしましょ~」と呼びかけている。
これを「アザーン」という。
アザーン(〈アラビア〉adhān)
1日に5回、イスラム教の信徒に対して礼拝の時刻を告げる呼び声。定まった文句によって詠唱される。
デジタル大辞泉の解説
こちらもどうぞ。
アメリカ人と京都旅行 ~日本人とキリスト教徒の宗教観の違い~ 1~11
意外とキリスト教よりイスラーム教の方が柔軟だったりするのはあるあるですね
そうなんですよね。
ラマダンで断食するときも、時期をずらすムスリムもいますし。
ムスリムの五輪選手で、五輪期間中は食事をして後で断食をする人もいました。
けっこう柔軟な解釈ができるようですね。