タイの人たちに、
「あなたが尊敬する歴史上の人物はだれですか?」
と聞いたら、きっと「ラーマ5世」の名前をあげる人が多い。
ラーマ5世は歴代のタイの国王の中でも特に人気があり、高い尊敬を受けている。
実はこの名君と明治天皇には共通点がいくつかある。
これからそれを見ていこう。
※トップ画像は「ラーマ5世」の像。
1、生まれた年
19世紀後半、西洋列強がアフリカやアジアを次々と植民地にしながら、日本に近づいてきた。
作家の司馬遼太郎は、幕末の日本人はこんな共通意識を持っていたと指摘する。
日本がヨーロッパに征服されて植民地にされるかもしれないという、この時代の共通した危機意識があった
(「明治」という国家 司馬遼太郎)
こんな厳しい時代に、明治天皇とラーマ5世がこの世に現れた。
実は、この2人はほぼ同時に生まれている。
明治天皇は1852年に、ラーマ5世は1853年に誕生したのだ。
お二人は「自国の主権が外国に奪われ、支配されてしまうかもしれない」という危機意識を持っていたはずだ。
2、即位した年
明治天皇とラーマ5世は1年違いで生まれ、同じ年に即位した。
運命の偶然で、どちらも1868年に天皇と国王になっている。
「時代ガチャ」でいえば、これは「大外れ」と言っていいだろう。
国が滅亡する危機にあるなか、10代で国のトップになったプレッシャーは、とてつもなく大きかったはずだ。
孝明天皇が突然亡くなったため、明治天皇は16歳で即位した。
アメリカ出身の日本文学・日本学者であるドナルド・キーン氏は、このときの天皇の様子を次のように書いている。
あまりに突然の発病、死だったため、明治天皇は天皇になる準備を全然していなかった。
教育を受けたといっても伝統的な内容ばかりで、これから新しい時代への対応など何も教えられていません。元服すら済ませていないほどで、天皇としてどうすべきか父親から聞く時間などありませんでした。
悲しみと不安からか、睡眠もままならず食もすすまなかったようです。「明治天皇を語る(新潮新書)ドナルド・キーン」
ラーマ5世がタイの国王になったのは15歳のとき。
明治天皇と同じように、強い重圧を感じていたらしい。
親しい官僚貴族は、わずかしかおらず、支援はのぞむべくもなかった。まして兄弟は幼く頼りにならなかった。
孤独は筆舌に尽くし難く、王冠は堪え難い重みを持ち、身に降りかかった不運の日々であった「東南アジアの思想(弘文堂)矢野暢 編集代表」
父親が亡くなった悲しみと、困難な時代に国を動かす不安から、明治天皇もラーマ5世も十分な食事や睡眠をとれなかっただろう。
どちらも孤独や王冠の重みを感じ、身に降りかかった不運を嘆いたかもしれない。
しかし、日本とタイにとってはラッキーだった。
1年差で生まれ、同じ年に即位した2人は日本とタイを代表する名君となり、国家の独立を守り抜いたのだから。
1つの大きな違い
明治天皇とラーマ5世には共通点が多いが、決定的に違うところがある。
それは近代化の「前段階」だ。
2人の父の思想は「真逆」といっていいほど異なっていた。
明治天皇の父親であった孝明天皇は外国が嫌いで、極端な「攘夷思想」の持ち主だった。
開国を迫った欧米に対し、武力で撃退しようとしたのが「攘夷」という考え方で、これが幕末の外国人を悩ませていた。
司馬遼太郎は攘夷の実態を分かりやすく書いている。
攘夷というのは、日本にやってきた西洋人を殺すことです。
その西洋人が怒って大挙攻めてきたら、こっちは刀と槍とでもって戦う。勝とうが負けようが、国土を血ぬらして戦う。(「明治」という国家 司馬遼太郎)
幕末の日本には、西洋人を見たら、「悪・即・斬」で斬り殺そうとした攘夷派の志士がよくいた。
そんな思想のボス的存在だったのが孝明天皇だ。
孝明天皇は幕府に対して、「なんで攘夷をしないのか? 早くやれ!」と強い不満を持っていたという。
孝明天皇は外国が嫌いで開国に反対し、「日本から西洋人を追い払え!」と攘夷を主張した。
ラーマ5世の父親であった「ラーマ4世」の思想はその正反対。
4世は外国に関心があり、積極的に関係を結ぼうと考えていたのだ。
キリスト教の宣教師から英語を学び、1855年に西洋と自由貿易を開始し、タイは米を輸出するようになった。
ラーマ5世は父王の路線を継承したが、明治天皇は孝明天皇の考え方を否定した。
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