明治天皇とタイ国王ラーマ5世・2つの共通点1つの違い

 

はじめの一言

「『東京で一番美しいと思う場所はどこですか』と私はしばしば聞かれる。そのたびに私は答える、『皇居のお濠(ほり)です』と。まず、私は内濠を思う。九段から歩き出すことにしよう。田安門から三番町へ通ずる濠に沿って進む。そこはかなり美しい場所である。(ノエル・ヌエット 昭和)」

「日本絶賛語録 小学館」

 

 

今回の内容

・明治天皇とラーマ5世の2つの共通点
・1つの大きな違い

 

・明治天皇とラーマ5世の2つの共通点

「あなたが尊敬する歴史上の人物はだれですか?」

とタイ人にきいた場合、「ラーマ5世」という国王の名前をあげる人が一番多いと思う。
ラーマ5世は今までのタイの王様の中でも、特に人気があって尊敬を受けている。

 

実はそんなラーマ5世は、明治天皇とたくさんの共通点がある。
今日は2つの共通点を紹介したい。
では、どうぞ。

 

1、生まれた年

明治天皇とラーマ5世は生まれた年がほぼ同じ。

明治天皇がお生まれになられた1年後、ラーマ5世が御誕生になられ

(在東京タイ王国大使館HP)

なんと、たった1年ちがい。
同じ学校にいたら、1年先輩後輩の間がら。

 

ちょっとマメ知識

イスラーム教を広めたムハンマド(マホメット)と聖徳太子も、ほぼ同じときに生まれている。
ムハンマドは570年ごろ生にまれていて、聖徳太子(厩戸皇子)は574年に生まれている。
アラビア世界にイスラーム教が広がったのと日本に仏教が広がったのは、だいたい同じ時代。

 

Mohammed_receiving_revelation_from_the_angel_Gabriel

大天使ジブリール(ミカエル)から神(アッラー)の言葉をきくムハンマド
(ウィキペディア)

 

2、即位した年が同じ。

明治天皇が天皇に即位したのが1868年。
ラーマ5世が国王に即位したのも1868年。
これはまったく同じ年だ。

1868年、明治時代に変わり天皇が再び国を統治するようになりました。折りしも、同年ラーマ5世(チュラロンコーン王)が君主に即位しました。

(在東京タイ王国大使館HP)

 

ということは、お二人とも、とても難しい時代に即位したことになる。
19世紀後半は、ヨーロッパの国々がアフリカやアジアの国を次つぎと植民地にしながら近づいていたとき。
前にも書いて申し訳ないけど、幕末の日本人がもった危機感を作家の司馬遼太郎は、こう言っている。

日本がヨーロッパに征服されて植民地にされるかもしれないという、この時代の共通した危機意識があった

(「明治」という国家 司馬遼太郎)

 

この日本人と同じ危機意識をタイ人ももっていただろう。
とくにラーマ5世は、国王としてこの危機感が強かったはず。
それが、次に書くプレッシャーにつながる。

 

 

2、若くして王になったプレッシャー

明治天皇が天皇に即位されたのは、16歳のとき。
父親の孝明天皇が突然亡くなられてしまって、急に天皇になられることになってしまった。
とてつもない重圧をお感じになっただろう。

あまりに突然の発病、死だったため、明治天皇は天皇になる準備を全然していなかった。
教育を受けたといっても伝統的な内容ばかりで、これから新しい時代への対応など何も教えられていません。元服すら済ませていないほどで、天皇としてどうすべきか父親から聞く時間などありませんでした。
悲しみと不安からか、睡眠もままならず食もすすまなかったようです。

(明治天皇を語る ドナルド・キーン)

 

ラーマ五世がタイの国王になったのは15歳のとき。
やはり明治天皇と同じ思いをされたようだ。

親しい官僚貴族は、わずかしかおらず、支援はのぞむべくもなかった。まして兄弟は幼く頼りにならなかった。
孤独は筆舌に尽くし難く、王冠は堪え難い重みを持ち、身に降りかかった不運の日々であった

(東南アジアの思想 弘文堂)

 

「悲しみと不安からか、睡眠もままならず食もすすまなかったようです」
「孤独は筆舌に尽くし難く、王冠は堪え難い重みを持ち、身に降りかかった不運の日々であった」

19世紀末に王になってしまったというのは、運命としかいいようがない。
同じ時代にお生まれになったお二人は、同じような重圧を感じられていた。

 

次回、もう2つの共通点について書きます。
「独立を守った」というのがその共通点なんだけど、かなり複雑な話になっちゃって。
うまく話しをまとめられる頭がほしいですよ。

最後に違うところを1点かきます。

 

・1つの大きな違い

明治天皇とラーマ5世は、似ているところがたくさんある。
でも、お2人の父親は大きく違う。
対照的といっていいぐらい。

まず、明治天皇との父親であった孝明天皇は外国が嫌いで、「攘夷思想」をもっていた。
幕末の外国人を悩ませたのが日本の「攘夷」という考え方。

「開国を迫った欧米を武力で撃退せよという(日本史用語集 山川出版)」ものだから、日本を開国させて貿易をしたいと考えていた外国人には迷惑このうえない。

でも、これは受験生用の日本史用語集の言葉だから、おだやかな表現をしている。
実際の攘夷とはこんなものだった。

攘夷というのは、日本にやってきた西洋人を殺すことです。
その西洋人が怒って大挙攻めてきたら、こっちは刀と槍とでもって戦う。勝とうが負けようが、国土を血ぬらして戦う。

(「明治」という国家 司馬遼太郎)

 

西洋人にしてみたら、こんな人間を相手にするのは冗談じゃなかったはず。
この攘夷の考え方をしていたのが、明治天皇の父親だった孝明天皇。

孝明天皇は幕府にこんな不満をもっていたほど。

当時の天皇、孝明天皇は幕府はなぜ攘夷をしないのかと、非常に強い不満を持っていた

(「攘夷」と「護憲」 井沢元彦)

 

そして、外国人が気付き始めた。
「日本から外国人を追い払え!」というこの攘夷運動は、孝明天皇がそう考えていることが大きな原因なんだろう。
それでこんな行動にでている。

攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。

(ウィキペディア)

 

こんな感じで父親の孝明天皇は、外国が嫌いで開国には絶対に反対という人だった。

これに対して、ラーマ5世の父親であった「ラーマ4世」は、外国に関心があって積極的に関係をもとうとした。

キリスト教宣教師の手を借りて、英語・ラテン語を学び、ルネサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教に触れ

・855年にイギリスと通商貿易に関するボーリング条約(英語版) (不平等条約) を締結。西洋と自由貿易を開始し、米を輸出するようになった。

(ウィキペディア)

 

明治天皇とラーマ5世は、考え方で似ている点が多いと思う。
けど、お2人の父親は、まったくといっていいほど正反対の考え方をしていた。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。