ヒンドゥー教のサティー vs ムガル帝国とイギリスの植民地支配

 

はじめの一言

*明治時代の日本について
「ひとり日本だけが、肩をそびやかして、対等の地位にたってヨーロッパに対した
(ネルー)」

「日本賛辞の至言33撰 ごま書房」

ネルー

マハトマ・ガンディーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成したインドの初代首相に就任した。

国際政治では「第三世界」の中心的人物として注目された。国内の経済政策では計画経済を推進したが、成功を収めるには至らず、晩年に行き詰まりを見せる中、死亡した。 (ウィキペディア)

 

今回の内容

・サティーを止めるイスラーム教徒
・イギリスが廃止したサティーという悪習

 

・サティーを止めるイスラーム教徒

前に、インドにあった「サティー」という残酷な風習について書いた。

サティー

ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることである。
日本語では「寡婦焚死」または「寡婦殉死」と訳されている。 本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった。

(ウィキペディア)

 

ヒンドゥー教では、人が死ぬとその死体は火葬されることになっている。
むかしのインドでは夫が死んだ場合、その妻も夫の死体を焼く炎に身を投じていっしょに焼かれて死ぬことが美徳とされていた。

 

ちなみにヒンドゥー教徒は、ふつうはお墓をつくらない。
死体を焼いた後、遺灰は川に流してしまうから。

遺骨というものがなく、お墓に入れるものがない。
ヒンドゥー教徒は、自分の遺灰は聖なるガンガー(ガンジス川)に流してもらうことを願っている。
そうすれば、必ず天国に行くことができると信じているから。

 

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ガンガーで沐浴する人たち

 

女性に自殺を強制するサティーというヒンドゥー教の行為について。

この残酷なサティーを憎んでいたのが、インドを支配していたイスラーム教徒(ムガル帝国)たちだった。
次に出てくる「マホメット教徒」というのは、イスラーム教徒のこと。

現在統治しているマホメット教徒達は、この野蛮な風習に敵対しており、できるだけ防止している

(ムガル帝国誌 ベルニエ)

 

17世紀のイスラーム教徒は、どうやってサティーを止めようとしたのか?

まず、サティーを許可制にした。

「サティーをしたい」という女性がいたら、その地方を支配していたイスラーム教徒の太守にそのことを申し出ることになっていた。
そして女性が太守の許可を得られたら、サティーをおこなうことになっていた。

 

イスラーム教徒としては本当はサティーを禁止したかったようだけど、それはできなかったらしい。
サティーはヒンドゥー教徒からしたら、「神聖な儀式」になる。
だからそれを廃止したら、ヒンドゥー教徒の反発をかって反乱を起こされる可能性がある。

太守が女性のサティーを許可する前に、あることをしていた。
「サティーをします」と申し出たヒンドゥー教徒の女性を、イスラーム教徒の女性にやめるように説得していた。

しばしばその女性達をマホメット教徒の女性達の中に入れさせ、忠告や約束をし、あらゆる穏やかな方法を尽くした

(ムガル帝国誌 ベルニエ)

キリスト教徒のベルニエも、知人に頼まれて夫を亡くしてサティーをしようとする女性を説得している。

その女性に言い聞かせるだけではなくて、「もし、サティーをしないで子供たちの面倒をみるなら、そのための生活費を支給する」という条件をつけている。

それでも、「自分はサティーで焼け死ぬ!」と主張するヒンドゥー教徒の女性にベルニエは激怒する。

そうか、お前は救いようがないのだから、それじゃ子供達も道連れにするがいい。喉を抉れ、お前と一緒に焼いてしまえ。どっちみち彼らは餓死することになるのだから

(ムガル帝国誌 ベルニエ)

幸いこのときの女性は、サティーを思いとどまった。

サティーはヒンドゥー教の考えによるものだから、ヒンドゥー教徒が廃止することは不可能だっただろう。

イスラーム教徒やキリスト教徒といった異教徒なら、ヒンドゥー教の考え方やバラモン(ヒンドゥー教の僧)の権威を否定することができる。

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インドの農村の女性

 

・イギリスが廃止したサティーという悪習

インドは、かつてイギリスに植民地支配されていた。

植民地支配というのは、もちろんいけないことだけど、インド人に話を聞くと「良い面もあったよ。イギリスが鉄道や学校をつくったことは良いことさ」と言う。

多くのインド人は、インドがイギリスに支配されていたことついては悪い感情をもっている。
けれど、その時代にイギリスがしたことのすべてが悪かったとは考えていない。

サティーをなくすために取り組んできたことも、そのひとつだ。
サティーが廃止されたことについては、宗主国のイギリスの力によるところが大きい。
イギリスはその統治時代に、サティーを禁止する法律を制定したから。

1829年にベンガル総督ベンティンクによって、サティー禁止法が制定された。
また、1830年にはマドラス、ボンベイにおいても禁止法が制定された。結果、禁止法の普及に伴って20世紀の初めにはサティーはほとんど行われなくなった。

が、禁止法が近代法制化された現在においてなお、稀にではあるが慣行として行われ続けている。

(ウィキペディア)

 

ムガル帝国時代には、イスラーム教徒はサティーを「許可制」にして減らしていた。
イギリス統治時代になってからは、法の力でサティーを廃止しようとした。
これは、イギリスのインド支配の「良かった面」だろう。

ウィキペディアには、「稀にではあるが慣行として行われ続けている」と書いてあるけど、これはインドの実態を反映しているとは思えない。
このことは、インド人に聞いてみてほしい。

 

 

「イギリスは法でサティーを禁じた」ということが、ボクにはちょっと意外。

というのは、イギリスがインドを支配したとき、イギリスは基本的に宗教にはふれなかったと聞いていたから。
イギリスはヒンドゥー教徒やイスラーム教徒をキリスト教徒に変えようとはしなかった。
それに、インドの宗教行為に干渉することもほとんどそなかったという。

それでも、このサティーという悪習はイギリス人の人権感覚からみて放っておけなかったということなんだろう。

「イギリスの植民地支配をどう思う?」

とボクが聞いたところ、あるインド人はこう言っていた。

「It is a past(それは過去だ)。今では、イギリスはインドの良い友人だよ。インドにとって大事なことは未来なんだ」

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。