はじめの一言
「彼らはよく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福という姿というものだろう。
(ハリス 幕末)
「逝きし日の面影 平凡社」
・野口英世
前回、ガーナにある負の世界遺産(ケープ・コースト城)について書いた。
ガーナについて書いた以上、野口英世にふれないわけにはいかない。
野口英世はガーナの首都アクラで亡くなっている。
のぐち‐ひでよ【野口英世】
[1876~1928]細菌学者。福島の生まれ。幼名、清作。伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。明治33年(1900)渡米し、蛇毒や梅毒スピロヘータを研究。ガーナのアクラで黄熱病研究中に感染して病没。(デジタル大辞泉の解説)
野口英世は1876年(明治9年)に、福島県に生まれている。
ちなみに、この年にはこんなことが起きていた。
「廃刀令発布」「上野公園開園式」「 神風連の乱」
意外なところでは、「米国で初となる火葬が行われた」ってことかな。
野口英世の人生に大きな影響をあたえたのは、1歳半のときに囲炉裏(いろりうら)に落ちて左手に大やけどを負ったこと。
これによって、母からこれからは学問で生活するよう強くすすめられた。
左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される。(ウィキペディア)
学者としての野口英世はこのとき生まれたんだろう。
こうした経験のためだろうけど、野口英世はこんな言葉を残している。
障害者であることは、学問においては問題にならない。
絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
野口英世が医師をめざしたのは、この左手の手術を受けたことがきっかけとなる。
アメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。
その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。この手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指す。(ウィキペディア)
この後、野口英世は、梅毒スピロヘータや黄熱病の研究、蛇毒で世界的に名を知られるようになった。
その業績は世界で高く評価され、「ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がった(ウィキペディア)」というほど。
でも、日本人にとってはやっぱり「1000円札の人」だろう。
なんで野口英世が選ばれたのか?
これには3つの理由があるらしい。
・優れた科学者だった。
・国民にとって親しみのある人物だった。
・偽造しにくい特徴の肖像だった。
野口英世は、日本をこえて世界の偉人となった。
その陰には、野口の並々ならぬ努力がある。
それは、野口英世の言葉から拾っていきたい。
努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
ナポレオンは三時間しか寝なかった
この野口英世が亡くなったのが、冒頭でも書いたけどガーナの首都アクラというところ。
1928年(昭和3年)のことだった。
そのときの様子が、ウィキペディアに次のようにある。
5月13日 – 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度罹患したのを不可思議に思いながら)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。
(ウィキペディア)
野口英世は、このときガーナで黄熱病の研究をしていた。
そして、研究者としてその生涯を閉じた。
ボクもガーナ旅行で、この病院に行ったことがある。
そこには野口英世の銅像があって、黒人のガーナ人がそのまわりを掃除をしていたのがとても印象的だった。
彼に野口英世をどう思うかきいてみた。
「すばらしい人だよ。彼はガーナに来て、人類のためにつくしてくれたのだから」
野口英世は、数々の名言を残している。
私は少しも恐れるところがない。私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。
家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。
モノマネから出発して、独創にまでのびていくのが、我々日本人のすぐれた性質であり、たくましい能力でもあるのです。
最後は野口英世の言葉のなかで、ボクが一番好きなものでこの記事を終わることにする。
自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。
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