はじめの一言
*「纏わせる」は、「まとわらせる」
「思うに、子供時代の折々の輝かしい幸福を奪うことなしに、いかなる環境にある子供にも完全な礼儀作法の衣を纏わせるこの国の教育制度は、大いにほめられるべきです。(フレイザー 明治時代)」
「日本絶賛語録 小学館」
前回、ヨーロッパでの政教分離について書いた。
政教分離の考え方によって、フランスでは公共の場所でブルカ(イスラーム教徒の女性が着る服)を着ることが禁止されている。
今回は、日本での政教分離について書いていきたい。
今回の内容
・日本での政教分離問題
・政治家による靖国参拝
・日本での政教分離問題
・日本での政教分離問題
意外に思われるかもしれないけど、明治時代の日本は政教分離ではなくて、「政教一致」という状態だった。
政教分離
日本では明治以来、国家と神道が結びついていたが、第2次大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)による神道指令(1945年)で、国家と神道が分離された。政教分離が本格的に確立したのは、戦後発布された日本国憲法においてである。
(知恵蔵2015の解説)
これは、いわゆる「国家神道」のことをいっているのだろう。
明治時代、「神道は宗教ではない」という考えがあった。
そしてこの認識のもと、神道が政治や教育と深く結びつくようになる。
これはむかしの話で今はもちろん違う。
現在の日本で「政教分離」が問題となるのは、「国・地方公共団体が,特定の宗教団体に特権を与えたり,宗教的活動を行なったりすること」というのがほとんど。
具体的には、「津地鎮祭訴訟」や「愛媛玉串料訴訟」がある。
政教分離訴訟
津市が体育館の地鎮祭に市費を使ったことが問われた「津地鎮祭訴訟」が有名。1977年の最高裁判決は「目的として宗教的意義を持ち、宗教への援助や助長の効果がある場合は違憲になる」と基準を示した上で、地鎮祭は社会的慣習で市の支出は合憲とした。
最高裁は97年に、愛媛県が靖国神社に納めた玉串料を公費で負担したことを違憲とするなど、政教分離をめぐる司法判断は揺れている。
(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)
ここにあるように、「津地鎮祭訴訟は合憲」である一方、「愛媛玉串料訴訟は違憲」と判断されている。
司法の判断も揺れるほど複雑で微妙な問題。
・政治家による靖国参拝
でも、現在の日本で政教分離についてもっとも問題視されるのが、政治家による靖国参拝だろう。
政治家が靖国神社に参拝に行くと、マスコミがその政治家にマイクを向けてきく。
「今回の参拝は、公人(こうじん)としてですか?私人(しじん)としてですか?」
こういうシーンを、テレビで見たことがある人は多いと思う。
石原元都知事は、こんな質問をした記者に激怒して「バカなことを言うな!」と一喝していたけど。
でも、マスコミがこうしたインタビューするのは、政治家による靖国参拝が「政教分離の原則に違反するのではないか?」という見方があるから。
このことについては、日本でも意見が分かれている。
「政教分離の原則にはあたらない」という立場の人は、次のようにいっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。
これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。
「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
政治家の靖国参拝が政教分離の原則に反しているかどうか?
その人の考え方や立場によって意見がちがうから、今のところ「正解」はない。
正解がないから、問題になっているのだろうし。
ただ、マスコミが報道することで靖国神社が人びとの関心を集め、参拝する人が増えている。
第87 – 89代総理・小泉純一郎は、2001年(平成13年)8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。但し福岡地裁の判決後は私的参拝であると表明している。
小泉純一郎首相による参拝以降、参拝客が急増した現象についてはマスメディアの報道が大きく影響しているとの意見もある。
「靖国参拝は、政教分離の原則に反している」という立場の人からしたら、思わぬ誤算だったかもしれない。
靖国神社の話が出たから、次回は韓国人と靖国神社に行ったときの話を書きます。
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