トルコの特徴:イスラム教+キリスト教(ヨーロッパ)の影響

 

さて今回の内容ですよっと。

・なぜトルコは政教分離が可能だったのか?
・最近のトルコ事情

 

・なぜトルコは政教分離が可能だったのか?

1920年代のトルコで、近代化していく過程で政教分離の政策がとられたということを前回に書いた。
トルコではなんで、アラビア文字をローマ字にするような大胆な政教分離が可能だったのか?
ここがトルコと他のイスラーム教の国(アラブ諸国)との大きな違いだ。

そのキーポイントはトルコという国の位置で、この国はまさにヨーロッパとアジアの境い目にある。
首都アンカラはアジア側にあるし、最大都市のイスタンブルはアジアとヨーロッパにまたがっている。

だからトルコ政府観光局のHPではトルコを「東洋がある。西洋がある。いくつもの物語がある。」とかっこよく紹介している。

トルコはヨーロッパとアジア(イスラーム教)の2つの影響を強く受けている。
かつてトルコの地には、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)があった。
これはもちろんキリスト教の国だ。

しかし1453年に東ローマ帝国は「征服王」メフメト2世によって滅ぼされ、オスマン・トルコ帝国の領土となる。
オスマン帝国はそのときからイスラーム教の国になった。

ちなみに1453年は、フランスとイギリスの百年戦争が終わった年でもある。
この戦争では、「らいおんハート」のイギリス国王リチャードや「奇跡の少女」のジャンヌ・ダルクが有名だ。

ちなみにちなみに、日本では1467年に応仁の乱が起きている。

東ローマ帝国の滅亡、百年戦争、応仁の乱の3つはセットで覚えておこう。

 

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メフメト2世は「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられたという。

 

トルコでのキリスト教とイスラーム教の影響は、イスタンブールにあるアヤソフィアで見ることができる。
ここは6世紀に建てられたキリスト教の聖堂だったけど、オスマン帝国に支配されてからはイスラーム教のモスク(礼拝所)として利用されるようになった。

 

少しこのアヤソフィアについて書かせてくれ。

先ほども書いたけど、東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープル(今のイスタンブール)はメフメト2世によって攻め滅ぼされている。

オスマントルコの軍隊がコンスタンティノープルになだれ込んで来たとき、市内にいた人々は救いを求めてこのアヤソフィアに集まってきた。
「ここで祈れば、奇跡が起きて大天使ミカエルが助けに来てくれる」と信じていたから。

でも実際にあらわれたのはトルコ兵だった。

教会に集まった人々もろとも侵略者の戦利品になり、虐殺もしくは奴隷として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪された。聖職者らは侵略者が妨害するまで祈り続けていた

(ウィキペディア)

教会で奇跡を願っていた人たちは、殺されるかトルコ兵の奴隷となってしまう。

 

現在のアヤソフィアの天井には、キリスト教の教会だったときにつくられたモザイク画を見ることができる。
どこかのガイドブックで、こんな記述を読んだことがある。

「イスラーム教のモスクでありながら、キリスト教のフレスコ画があるアヤソフィアはイスラーム教とキリスト教の融合の象徴である」

それはどうだろう?
アヤソフィアがモスクだったとき、フレスコ画は漆喰(しっくい)で塗りつぶされていたから、見ることはできなかったはず。
「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と呼ばれたメフメト2世が「融合」を望んだとも思えない。

 

トルコで有名な「サバサンド」

ネットでは「タモリのサバサンド」が有名だけど、もとはトルコの名物料理だった。
でも日本のサバサンドはトルコのものとは少しちがう。

「日本のようにサバの小骨を取り除くなどの気の利いた処理は一切なされていないので注意(Wikitravel)」
こういう細かいところに日本人とトルコ人の国民性の違いを感じてしまう。

 

さて、話をトルコの歴史に戻す。

トルコはもともとはキリスト教の国だったけど、イスラーム教徒に征服されている。

そのため、トルコには他のイスラーム教の国とはちがって、ヨーロッパ(主としてキリスト教)の影響が強くあった。
トルコが近代化に成功した大きな理由は、このヨーロッパの影響があったからだという。

外務省のHPには次のように書かれている。

アタテュルクは、宗教と政治を分離しなければトルコの発展はないと考え、国家の根幹となる原理として政教分離(世俗主義)を断行。

憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語にはアラビア文字に替わって、アルファベットを当てました(ラテン・アルファベットで表せないものは独自に作成)。

トルコという国

 

一夫多妻制を禁止したし、1934年には女性の参政権を実現させた。
こうした大改革が可能だったのは、トルコが古くから、ヨーロッパの影響を受け継いでいたからだろう。
アタテュルクによるトルコの近代化から現在にいたるまで、トルコでは政教分離が伝統的な政策となってきた。

でも、それが今揺らいでいる。
次回、そのことについて書きます。

 

セネガルのイスラーム教徒の女性

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。