はじめの一言
「日本人は一般に野外に出て楽しむことを好むが、これもわれわれ中国人が及ばないところである。春も彼岸を過ぎて花の雲のたなびくところともなれば、京都の丸山、東京の上野、飛鳥山、さては吉野その他、日本全国どこへいっても、道という道は浮かれ男に女づれである。(郁達夫 昭和)」
「日本絶賛語録 小学館」
前回、こんなことを書いた。
・中国で発明された製紙法が日本に伝わったのが、610年(飛鳥時代)のころ。
・製紙法を日本に伝えのは、高句麗(こうくり)のお坊さんである「曇徴(どんちょう)」という人。
確かに曇徴については、日本に製紙法を伝えた人物だと考えられていた。
近年まで、製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、一般に曇徴は日本における製紙の創製者とみなされてきた。
(ウィキペディア)
でも最近では、これが見直されている。
曇徴が日本に製紙法を伝えたという説は、「かなり、あやしいぞ」と疑問視されているのだ。
今回はこの「曇徴(どんちょう)」という、高句麗のお坊さんのことを書いていく。
この曇徴さんをつうじて、韓国人の日本に対する見方も知ることができる。
前回も書いたけど、新しい事実が分かるたびに歴史はアップデートする。
たとえば、昔は源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは、「1192年」で「良い国いつくろう、鎌倉幕府」で覚えていた。
でも、今は違う。
「1185年だった」という新説が出てきて、「良い箱つくろう」と覚えるらしい。
どんな箱やねん。
鎌倉幕府だけではない。
聖徳太子にいたっては、「そんな人はいなかった」とも言われている。
今の中学校の歴史教科書からは、「カースト制度」も江戸時代の「士農工商」もなくなっている。
だから、新しい事実が分かるたびに、それまで自分がもっていた歴史の知識もアップデートしないといけない。
ボクのように「曇徴が、製紙法を日本に伝えた」と学んでいた人は、最新バージョンに変える必要がある。
「曇徴が、製紙法を日本に伝えた」と考えられていたのは、推古天皇の時代に高麗から僧の曇徴がやって来て、絵の具や紙墨を作ったという記述が日本書紀にあるから。
ただ、これについて随筆家で和紙研究家だった寿岳文章(じゅがく ぶんしょう)は、曇徴が絵具や紙墨を初めて作ったのではなく、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と理解するのが妥当であるとした。
ようするに、「曇徴(どんちょう)という人物には、優れた技術があった」という意味のようだ。
現在の日本人もするような一種の社交辞令かも。
結局、「曇徴が、製紙法を日本に伝えた」とされる根拠は日本書紀のこの記述だけしかないあ、それが事実であることはまだ確認されていない。
つまり、曇徴が日本に製紙法を伝えたということは、歴史的な事実として認められていないのだ。
そのことに加えて近年では、日本では紙を必要とする作業が行われていて、曇徴が来る前から紙をつくる技術があったという説が唱えられている。
こうしたことを考えると、「曇徴が日本に紙のつくり方を教えた」という今までの説は、かなりあやしくなる。
そう記憶していた人は、「そういう説もあるけど、確認されていない」という情報にアップグレードした方がいい。
繰り返すけど、新しい発見があるたびに歴史は変わる。
そのたびに知識も最新版に更新する必要がある。
今回書いたような日本と韓国の関係については、特にこの傾向が強い。
ボクが習ったことと、今の学生が習っていることはちがっている。
たとえば、ボクが日本や世界の歴史を習ったころは、こう学んだ。
「古代の日本は、朝鮮半島にあった国より遅れていた」
確かに、そういう時代もあった。
でも、常にそうであったわけではない。
実際には、7世紀の日本人は「日本は、新羅より上である」と考えていた。
7世紀末から日本が上位に立とうとしたので、新羅との対立が目立つようになった。
(日本史用語集 山川出版)
こんなことは、ボクの学生時代に習った記憶がない。
歴史のアップデートはやっぱり大切だね。
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韓国の人悪いね、古代の人は「日本は新羅王朝より上」と考えてた
紙が伝わる前は木の皮や竹簾の様な物でも、積み重ねが可能ですね。木簡は沢山出土しています。どちゃく民は出来ていないはず。