日本のヴァンダリズム:木曽義仲の軍、京都でやりたい放題

 

これはJR北海道の西帯広駅。(2004年8月)
こんな落書きをふくめて、公共の物を傷つけたり破壊したりする行為を英語で「ヴァンダリズム」という。

 

 

「ヴァンダリズム」の語源は古代のヨーロッパにいたヴァンダル人という民族で、「野蛮人」とみられていた彼らが文化の中心地ローマへ侵入して、好き放題に荒らしまわったことからこの言葉がうまれた。

辞書にはこんな説明がある。

バンダリズム(vandalism)

《破壊と略奪をほしいままにしたバンダル族の名から》芸術・文化の破壊行為。蛮行。

デジタル大辞泉の解説

5世紀の民族大移動。青線がヴァンダル人の移動ルート

 

ヴァンダル人に破壊・略奪されるローマ(455年)

 

さて、日本の歴史にもこんなヴァンダリズムはあった。
これからその出来事を書いていこうと思う。

時代は12世紀、平安時代の末期も末期、鎌倉幕府が爆誕するちょっと前に、山深い信州(長野)で源 義仲 (みなもと の よしなか)という武将が生まれた。
きっと木曾 義仲(きそ よしなか)の名前のほうが有名だから、ここではこちらを使う。

当時、京都では平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を幽閉する(1179年の治承三年の政変)など、平家の人間が好き勝手にしていた。

これに我慢できなかった後白河天皇の息子、第三皇子の以仁王(もちひとおう)が、「平家を討て!」と全国に命令(令旨)を出す。(1180年の以仁王の挙兵

これを知った木曽義仲が立ち上がる。
兵を率いて倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで数万の平家軍を撃破して、そのまま京都へ入った。

この戦いのとき、義仲軍が角に松明(たいまつ)をつけた牛の群れを平家軍に突入させたという話がある。
くわしいことはここをクリック。

倶利伽羅峠の戦い

 

 

平家を追い払った功績で、木曽義仲は「朝日将軍」という称号を朝廷から授かる。

でも義仲は山国で生まれ育った人間で、勇気があって強かったけど、京の都の伝統や文化についての知識がない。
政治感覚にもとぼしく宮中の空気もを読めず、後白河法皇や公卿から野蛮な人間と敬遠されるようになる。
家来にも教養やマナーがなく、義仲の軍は京都やその周辺でやりたい放題となる。

京都市中で軍勢が乱暴を働くので、やがては後白河や院近臣以下、貴賤上下問わず京中の憎悪を集めるという孤立した状況に陥ってしまう。

「日本の歴史09 頼朝の天下草創 (山本幸司) 講談社」

 

このときの京都のようすを公卿の九条兼実(かねざね:1149年ー1207年)が日記「玉葉」にこう記す。

「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」

(意訳)

武士ではない者は生きていけないから、多くの人が京都から田舎へ逃げてしまった。
作物が荒らされて、食べ物もほとんど残らない。
京都中の神社やお寺、民家が破壊された。
朝廷への献上品も奪われてしまう。

こんな略奪や破壊行為をヴァンダリズムという。

 

そんな木曽義仲も1184年の粟津の戦いで源頼朝の軍と戦って果てる。
粟津はいまの滋賀県大津市。

義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にし、これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。

粟津の戦い

粟津ヶ原の戦い

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。