【明号作戦】日本軍が仏軍を撃破し、インドシナ3国が独立

 

いまは太平洋戦争と呼ぶ先の戦争を、当時の日本政府は「大東亜戦争」と呼んでいた。

これは「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という理念があったからだけど、戦後GHQによって戦時用語として「大東亜戦争」は使用が禁止され、いまもテレビや新聞ではなかなか使われなくなった。

太平洋戦争については自衛戦争、侵略戦争、解放戦争などいろいろな見方がある。
ここでは「解放」という面に注目して書いていこうと思う。
どのぐらい本気で現実的で、そして何より相手の側に立った考え方か分からないけど、当時の日本は東南アジアを支配していたヨーロッパ諸国と戦って、アジアの国々を解放しようとする思いはあったのだ。

その具体的なあらわれがフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)で行われた「明号(めいごう作戦」だ。
1945年3月9日、日本軍が現地のフランス軍と戦ってこれを制圧し、上記3か国に独立をうながした。

日本軍は、フランスの保護国だったベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、武力行使決意と「独立を宣言することが可能である」旨を連絡する使者を発していた。

明号作戦

日本軍に降伏するベトナム・ハノイのフランス軍

 

日本から連絡を受けたベトナム阮朝の皇帝バオ・ダイは、フランスからの独立とベトナム帝国の樹立を宣言した。
2日後にカンボジアのノロドム・シハヌーク国王も独立を宣言。
日本軍がフランス軍を破ったことを確認したラオスのシーサワーンウォン国王が最後(4月8日)に独立を宣言した。

でもその4か月後、2発の原子爆弾をくらった日本はアメリカに降伏して戦争が終わる。
日本が消えたインドシナには再びフランスがやってきて、3カ国を支配下に置こうとした。

 

ベトナムのバオ・ダイ皇帝

「伝説の革命家」ホー・チ・ミンが登場すると、バオ・ダイは彼に政権をゆずって歴史の舞台から去った。

 

カンボジアのノロドム・シハヌーク国王

カンボジアの完全独立は1953年11月9日で、シハヌークは「独立の父」と呼ばれる。

 

ラオスのシーサワーンウォン国王

日本がフランスを破ったと聞いても、はじめシーサワーンウォンは「そんなわけねーだろ」と信じなかった。

 

結果だけをみれば、明号作戦で日本軍がフランス軍を撃破したことで、ベトナム、カンボジア、ラオスの3か国は独立することができた。

とはいえ、現在これらの国が日本に感謝しているかというときっとそれはない。
歴史にくわしいベトナム人でも明号作戦はもちろん、バオ・ダイ皇帝さえ知らなかったのだから。
どこの国の歴史でも自分たちの力で独立を達成したと教えられているから、上の3か国で明号作戦は「なかったこと」になっていると思う。
だから、日本が3か国を独立させてあげた、なんて前提でこれらの国の人と話をしてもたぶん噛み合わない。

世界中の人が参考にする英語版ウィキペディアでは「日本によるクーデター」と紹介されていて、日本の指示によってベトナム、カンボジア、ラオスが独立したとある。

During the Coup the Japanese urged the declarations of independence from the traditional rulers of the different regions, creating a new Empire of Vietnam, Kingdom of Kampuchea and Kingdom of Luang Phrabang under their direction.

Japanese coup d’état in French Indochina

でも、3か国を独立させるために本気でフランス軍と戦った日本人もいただろう。

 

 

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4 件のコメント

  • >結果だけをみれば、明号作戦で日本軍がフランス軍を撃破したことで、ベトナム、カンボジア、ラオスの3か国は独立することができた。とはいえ、現在これらの国が日本に感謝しているかというときっとそれはない。

    うーん、現在ならば、そんなことを覚えている人はほとんどいないかもしれないですね。
    でも既に30年近く昔の話になるのですが、私が東南アジアへ出向いた頃には、そのことを覚えているインドシナの人々がかなりいましたよ。インドネシアではさらに(白人宗主国のオランダを撃破したことで)日本に対して友好的でした。でも、国民の多くが中華系で占められていたシンガポールは、それとは逆に反日感情が少しありましたかね。
    いずれも昔のことです。時の流れとともに人々の記憶も移り変わっていくものです。

  • 第二次世界大戦を指すものとして「大東亜戦争」という用語だけがGHQに禁止されたのは、おそらく、「東アジアに(欧米人の支配下から独立した)大東亜共栄圏を確立する」という考え方が、欧米連合国側にとっては、危険極まりない決して許すことの出来ない生意気な思想に見えたのでしょうね。
    昨今の東アジアにおける国際政治の状況を見ると、そのGHQの予想と予防対策は見事に成功したようです。

  • 別の記事で書きますけど、2人のベトナム人にきいても、2人とも明号作戦を知りませんでした。
    大学を出て日本の会社で働いているから、かなりのエリートなんですけどね。
    知っていたのは「日本のよって200万人が餓死した」という説です。
    ただ現在のベトナム人は親日で友好的です。過去のことを蒸し返して日本に憎悪を向けることはしません。

  • 戦勝国のトップの国だけが国連で拒否権を持てるという特権からも、自国ファーストで自分にとって都合のいい国際秩序を構築したかったことは明らかです。
    それは勝者の特権ですけど。
    大東亜共栄圏はそれを根底から否定するものですから、欧米諸国としては認められないでしょう。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。