【日本とブラジルの関係】移民した理由と背景、苦闘と成功

 

2日前、日本に住んでいる日系ブラジル人から見た日本とブラジルの違いについて書きやした。

日系人が語るブラジルの治安。日本にはない「ファベーラ」

ファヴェーラとはスラムや貧民街のことで、ブラジルと日本では治安が異次元レベルで違うのだ。

今回は日本とブラジルの関係や日系ブラジル人の歴史について書いてこうとおもう。

 

 

これが南米の雄・ブラジルだ。

面積:851.2万平方キロメートル(日本の22.5倍)
人口:約2億947万人
首都:ブラジリア
民族:欧州系(約48%),アフリカ系(約8%),東洋系(約1.1%),混血(約43%),先住民(約0.4%)
言語:ポルトガル語
宗教:カトリック約65%,プロテスタント約22%,無宗教8%

以上の数字は外務省ホームページ「ブラジル連邦共和国(Federative Republic of Brazil)基礎データ」から。

 

 

ブラジルの国名は上の「パウ・ブラジル」に由来する。
*ポルトガル語で「赤い木」という意味。
貴重な赤い染料が取れるこの木がたくさんあったため、ブラジルと呼ばれるようになった。

 

愛知県の明治村に「ブラジル移民住宅」がある。
これは大正8年(1919)年にサンパウロに建てられた建物をここへ移築したもので、むかしここにアメリカ人とイギリス人と行ったとき、ブラジル移民住宅を見て彼らは“かん違い”をした。
ブラジル人が移民として日本へやって来たと思ったら、じつは逆で、日本人が労働者としてブラジルへわたっていったのだ。
このときいたアメリカ人とイギリス人は、日本は昔から豊かな国だと思っていたし、浜松にはたくさんのブラジル人労働者がいるから、日本人移民というのは想像できなかったらしい。

でも明治時代の日本は貧乏国で、とくに欧米から巨額の借金をして戦った日露戦争(1905年)で、勝利したのに賠償金をとれなかったのが痛かった。
経済は低迷して農村の貧困は深刻さを増す。
そして、それまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカが人種差別的な考え方から、日本人を排斥する動きが進んでいった。

大部分は白人の下働きなど、低廉な賃金の労働に従事していたが、従順に働くことから周囲からの反感を買い、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の排日運動が起こった。

排日移民法・日本人移民への排斥活動とその対応

日本政府は、新しい移民受け入れ国を見つけないといけなくなった。

 

一方のブラジルはアフリカ人の黒人奴隷をコーヒー園などで働かせていたけど、1888年の奴隷制度廃止によって労働者不足におちいる。
それでヨーロッパ人移民を積極的に受け入れたものの、それまで奴隷がやっていたような仕事を彼らがするはずがない。
ヨーロッパ人移民は反乱をおこしたため、ブラジルは再び労働者不足となった。

ということで、日本とブラジルで需要と供給が一致したわけだ。
1908年に781人の日本人移民が笠戸丸で神戸港を出港して、サンパウロのサントス港に到着する。
いまに続く日系ブラジル人の歴史が始まった瞬間だ。
ちなみにこのうち325人が沖縄県の人たちで、浜松市にいる日系ブラジル人にルーツを聞くと沖縄という人が多い。

 

笠戸丸

 

夢と希望を持ってブラジルの地に着いてみたものの、かつての黒人奴隷と同じような条件で働かされる日本人が多かった。
もともと奴隷解放令で失った労働力を補うための移民だったから、待遇も大して変わらなかったのだ。

おそらくオーナーは白人が多くて、この時代なら有色人種への差別意識も当然のようにあっただろう。
国民性の表れか、日本人移民の場合はストライキは少なかったけど夜逃げが多かったという。

 

コーヒーを収穫する日本人の移民

 

トルコでの生活が合わなくて、お笑い芸人の三瓶さんは3カ月で日本に戻ってきたけど、明治~昭和初期の日本人移民にそんなことができるはずもない。

低賃金に重労働、慣れない気候や食事とブラジルの地で二重三重の苦難を歯を食いしばって乗り越えて、商売や農園で成功する日本人もでてきた。

当時は不可能と思われていたブラジルでの紅茶栽培を実現したのも日本人移民だった。
いまブラジルで栽培されているジャガイモやレタスなどの野菜の多くは、日本人移民がブラジルの赤土でも育ように品種改良をくり返してできたものだ。

ブラジルの日本人は教育をとても重視していた。

ブラジルの公立学校は半日制であったために(現在も半日制)、多くの日系ブラジル人の子供たちは半日を公立学校で、残りの半日を日語学校で学んだ。そのため、公立学校以外では日本語は日常語として使用された。

日系ブラジル人

現在では日系人の医者や弁護士がたくさんいるから、ブラジル社会では日系人に対して「教育レベルが高い」というイメージがある。

 

ではここで、「ブラジル日本人移民」クエスチョン。
日本人781人を乗せた笠戸丸がサンパウロに着いたのは何年だったでしょう?

答えは1908年。
2年まえの2018年は移住110周年ということで、ブラジル政府の招待を受けて眞子さまがブラジルを訪問された。
知り合いの日系ブラジル人に現地の反応をきいたら、皇室の方が来てくれるのはやっぱり光栄でうれしいことだからみんな大歓迎だったという。

 

おまけ

 

 

これは安倍首相がウルグアイを訪れたときの様子。
彼らがしてきた苦労や思いはブラジルの日本人や日系人と同じはずだ。

 

いまのブラジル・サンパウロの日本人街

 

*佐藤正久議員の素晴らしいツイートが消えたり表示できないこともあるから、メッセージと画像のキャプチャーを載させてほしい。

【サンパウロの「日本人街」リベルダージは日系人の拘りに感動、市当局を説得等なかなかできるものじゃない】
横断歩道信号機は人ではなく鳥居、街灯は提灯、広場名も地下鉄駅名も「日本」が入っています。日系人の方々、頑張っておられます。敬礼!

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。