きのうの記事で、1900年の中国で起きた義和団事件について書いた。
当時の中国は欧米列強に国土を支配されて「半植民地」という状態で、それに怒った義和団や農民が外国人や教会を襲う排外運動がおこる。
義和団の人たちは、呪術によって肉体は刃物や銃弾も跳ね返すようになった!と信じていたけど、実際にはイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の「八カ国連合軍」の返り討ちにあう。
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1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。
この義和団事件について、日本人に知ってほしい日本人がいる。
それは、義和団の攻撃から北京にいた日本人や欧米人を守り抜いた柴 五郎(しば ごろう)という英雄だ。
柴五郎
のちに陸軍大将と大出世した柴五郎は会津の出身で、若いころは地獄のような経験をしていた。
新政府(明治政府)軍との間でおこなわれた会津戦争のときには、祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃してこの世を去って、会津の人間は戦後、「朝敵」や「国賊」という差別的な扱いをうけていた。
その後、陸軍学校に入り、かくかくしかじか紆余曲折あって、柴五郎は1900年(明治33年)に中国(清国)の日本公使館の駐在武官となる。
義和団事件が発生したのはそのすぐあと。
首都北京にいた日本人や外国人が暴徒によって殺害され、北京は不穏な空気につつまれる。
このとき柴五郎は彼らの運命をあずかることになった。
当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。
他国の軍と協力しながら約2か月間、柴五郎は北京にいた外国人と日本人を守り切ることに成功。
その活躍には、世界各国から惜しみない称賛がおくられた。
ロンドン・タイムスは社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と評され、柴はイギリスのビクトリア女王や各国政府から勲章を授与された。
イギリス公使のマクドナルドは柴五郎をはじめ日本兵の勇敢さと礼儀正しさに感銘をうけて、深い信頼を寄せるようになる。
1902年にイギリスが日本と軍事同盟(日英同盟)を結んだ背景には、義和団事件のときの柴と日本兵の奮闘があったのだ。
柴五郎は当時、ひょっとしたら世界で最も有名な日本人だったかもしれない。
でも令和のいまでは、忘れられた日本人ではないかとおもう。
では最後に1920年代の中国を見てみよう。
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>柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていた。
凄いですね。当時の日本人には、現代の国際政治の場(と言っても裏方ですが)で活躍してほしいくらいの優れた逸材がそんざいしたとは。さすがは明治の先達だ。
>他国の軍と協力しながら約2か月間、柴五郎あ(原文ママ)北京にいた外国人と日本人を守り切ることに成功。【原文改行】その活躍には、世界各国から惜しみない称賛がおくられた。
そうですか。ただ、欧米多国籍軍+日本軍に国土の一部を占領されていた当時の中国にとってみればねぇ・・・。柴五郎は、「悪魔の使い」にも見えたかもしれないですね。
と言っても、こういう見方は日本以外のどの民族からも呈されることは無いでしょう。なぜなら、日本人にとって「善悪」とは、あくまで、相対的な価値観に基づく評価尺度に過ぎないですから。これは、宗教に重きを置かない日本人だからこそ、取り得る立場だと思うのですよ。欧米人も、永井豪「デビルマン」を読んで勉強するといいのに。
最近ようやく、映画SW等で「修行した割にはすぐに堕落するジェダイの騎士」が登場するようになって、欧米の善悪判断の基準も少しは進歩したような気がしますが。日本人に比べればまだまだです。哲学の底が浅い。
でもなんかこういう言い方をすると、最近はすぐに「日本ホルホル主義者だ!」という批判を受けるので嫌なんですが。
支配する側、される側では見方は違うでしょうね。
あの当時の価値観や常識では、弱い国が植民地になることは当たり前でした。
日本もそうなる可能性はありましたし。