きょう4月13日はご存じ、平城京遷都の日。
元明天皇が710年のこの日に、藤原京から奈良の平城京に都を移したという古代の情報はいいとして、いまの日本で4月13日は喫茶店の日、決闘の日、水産デー、浄水器の日になっている。
慶長17(1612)年の4月13日(旧暦)に、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で戦ったという決闘の日も血沸き肉躍るけど、ここでは「喫茶店の日」に焦点を当てて日本のコーヒー文化について書いていこう。
1868年に戊辰戦争が起きて、鎌倉時代からつづいた武士による政治(武家政権)は終わりをむかえ、日本は明治天皇を中心に近代化への道を歩き出す。
その20年後の1888年4月13日、東京・上野に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」がオープンした。
言ってみればこれが日本のコーヒー喫茶の誕生日で、それを記念して現在では「喫茶店の日」として国民に親しまれている(か?)。
翌年1889年には大日本帝国憲法が発布されて、古い日本とは完全におさらばグッバイ、明治日本は欧米諸国をモデルとする近代国家になる。
本邦初のコーヒー専門店が登場したのは、日本社会に「ゴーウェスト」みたいな空気が流れていた時のこと。
1888年に「可否茶館」を開いたのは鄭永邦(てい えいほう)という人で、この人はなんと中国と台湾の英雄・17世紀の鄭成功の子孫だ!と自分で言っていただけだから、本当のところはデビルマンなみに誰にも分からない。
こんな名前だけどこの人は日本生まれの日本人。
彼はアメリカにわたったとき、市民が気軽にいろんな人と語り合えるコーヒーハウスを見て感銘を受ける。
そのことがのちの起業につながった。
江戸時代には「士農工商」という身分制度はなかったけれど、武士が農・工・商の町人を支配する体制はあった。
明治になってもその意識はまだ残っていただろうし、鄭永邦はそんな封建的な空気をなくしたかったのではないか。
彼が理想としたのはイギリスのコーヒーハウスだろう。
客同士で政治談議や世間話をしたりしていた。 こうした談義や世間話は、近代市民社会を支える世論を形成する重要な空間となり、イギリス民主主義の基盤としても機能したといわれる。
「可否茶館」のコーヒーは一杯1銭5厘と、1杯2銭の牛乳よりは安いけどそば(8厘ほど)よりは高かった。
そんな高嶺の値段のせいか、明治の庶民には欧米のような交流の場は必要なかったのか、日本初のコーヒー専門店「可否茶館」は5年で閉店ガラガラ。
でもその後の日本でコーヒー文化は定着して、いまでは都市部の鉄道・地下鉄の駅を降りてまわりを見渡せば、コーヒーショップの一軒二軒はすぐに見つかる。
浜松なら駅の構内にコーヒーを出す店が3、4軒あって、近代市民社会を支えているかは知らないけど、疲れた人にやすらぎを提供している。
後日談
夢破れた鄭永邦(てい えいほう)だけど、彼の活躍は終わったあとに始まった。
もともとこの時代に渡米できる日本人なんて普通じゃなく、彼の家は長崎で代々、清朝の役人の通訳をしていたのだ。
中国語がペラペラの鄭は、1895年の日清戦争の講和条約(下関条約)締結のときには伊藤博文の通訳をつとめたし、1905年の日露戦争後の満州善後条約を締結するときには小村寿太郎の通訳をした。
コーヒー店のオーナーをしているよりも、日本にとってはこっちのほうがよかった。
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