【ロベルトソン号事件】ドイツ皇帝が感動した日本人の“仁”

 

中国儒教の考え方で人間の基本となる精神、日本ではドラマのタイトルにもなった「仁」ってどんなものだろう?
井戸に落ちそうな赤ん坊を見たら、思わずかけ寄って助けようとする。そんな心が仁であると孟子は言う。

命の危険にある人に救いの手をさしのべる行為は世界共通の価値観だから、人命救助は国境を越えてどこでも尊い行為になり、それをした人はヒーローとみなされる。

 

1889年に和歌山県沖で、トルコのエルトゥールル号が強風と高波のために沈没してしまう。
このとき台風の中、村民が約70人の乗組員を助けだし、その後彼らは、日本の軍艦によってトルコに送り届けられた。

現在の串本町にはこのときの慰霊碑が建てられていて、これが日本とトルコの友好親善の象徴になっている。
2017年にここを訪れたトルコ大使が、地元の小学生が慰霊碑を掃除しているのを見て「皆さんはトルコと日本の間に存在する、最も美しい花で飾られた架け橋。トルコ国民を代表して、心の底から感謝の意を表したい」と心から感動した。

でもエルトゥールル号沈没事件の約100年後、イラン・イラク戦争でトルコはこのときの恩返しをして日本人を助けてくれた。

くわしいことはこの記事をどうぞ。

トルコ大使が日本の小学生に感動した理由。エルトゥールル号事件。

 

エルトゥールル号の救助劇はわりと有名だと思うけど、ドイツのロベルトソン号はどうだろう。
これはほとんどの日本人が知らないんじゃないか?
でも知っておく価値のあることだから、ここで紹介させてもらいたい。
日本人の仁の心を見ることができるから。

 

ときは明治時代、エルトゥールル号沈没事件のすこし前の1873年、ドイツのハンブルグ港を出た商船「ロベルトソン号」は中国の福州でお茶を積んで、オーストラリアへと向かっていた。
でも運悪く途中で台風に遭遇して、強風によってマストが折れたロベルトソン号は漂流を続け、2名が死亡して8名となった乗組員を乗せたまま宮古島へ流れついて座礁する。

これを見つけた宮古島の役人が小舟で救出を試みるものの、風が強くて波も荒く船には近づけない。
役人の報告を受けた蔵元(各村番所を統括する政府)もいま救出することは不可能と判断して、翌日に持ち越した。
その夜、乗組員を励ますために、村民は夜を徹して海岸でかがり火をたく。

次の日に行われた救助作業の様子は「うえのドイツ文化村」のホームページに書いてある。

台風の余波で波は高く、サバニは何度も転覆しそうになりながら、船に残っていた救命ボート1隻も使い、乗組員8名(ドイツ人6名、うち女性1名。中国人船員2名)を無事に救出します。

ちなみに「うえの」とあるけど、このドイツ文化村があるのは宮古島ですよ。

 

その後、ドイツへ帰国したロベルトソン号の船長が宮古島で起きたことを新聞に発表すると、それが皇帝ヴィルヘルム1世の心を動かす。
皇帝は1876年(明治9年)に軍艦チクローブ号を日本へ派遣して、勇気のある人びとを賞賛するために「博愛記念碑」を宮古島に建てた。
ドイツ人が博愛精神と表現する心は、東洋思想の「仁」になる。

 

ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世

ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年の普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。

ヴィルヘルム1世

このときの首相が「鉄血宰相」と言われたビスマルク。

 

でも、ロベルトソン号の話は日本で広がることはなく、宮古島でも昭和初期まで忘れ去られていた。
記念碑の探索を趣味としていた人がこの碑を発見して、昭和12年には小学校の修身教科書にこの話が載ったことで全国に知られることとなる。
でも令和のいまじゃ、ウィキペディアの「日独関係」に少し説明があるけど、ロベルトソン号を知っている日本人は激レアじゃないかと思う。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。