日本人と外国人の違うところ:言い方が曖昧でよくわかんねー

 

日本に関心があったり日本語を学んでいる外国人はいま世界に山盛りいて、そんな人たちが集まるSNS上のグループに最近ある日本人がこんな質問を投げかけた。

「日本人と外国人の性格で、大きく違う点は何だと思いますか?」

外国人から見た日本人像というのはボクの好物だから、見ていくとなかなか面白い。
でも内容はたくさんあるから、今回は「曖昧(あいまい)でわかりにくい日本人」というテーマで書いていこうと思う。

ただ彼らは日本語勉強中の外国人だから、正確な文章を書くことはむずかしくて、「ペルーで一番大罪はデリカシーなしではっきりこぼす」とかいうコナン君でも解読困難な日本語もあったから、ここでは内容を変えない範囲でボクが意訳して書くことにする。

ではHere we go(いきましょう)。

 

あるマレーシア人は「一般的に外国人は、自分が思ったことをはっきりと言う」と書く。
つまり日本人はその逆で香港人は「忖度し過ぎる」と言うし、カナダ人は「曖昧(あいまい)」と指摘する。

そしてこれはペルー人の意見。
ペルーは保守的な国で自分のようなリマ市民から見ると、特に南部の人はボディーランゲージが少なくて、自分の気持ちを伝えるときに「硬い」という印象がある。
でも自分が中米に行ったら、現地の人から「あなたは表情が硬い」と言われました。
良いこと悪いことは場所によって違って、ペルーで一番いけないことはデリカシーなしではっきり言うことだと思う。

この人は日本人も保守的でペルー人に似ていて、言葉やボディーランゲージを多く使わないように見えるという。

 

相手の心情に配慮して、傷つけないようソフトな言い回しをすると遠回しな表現になってしまい、結果的に「いや、わかりにくいし!」と外国人から思われるのだろう。
外国人との付き合いがあったら、誰でも一度はこういう経験をすると思う。

これは個人的な経験だけど、まえにイギリス人からサッカー観戦に誘われたとき、あんまり行きたいとは思わなかったから、「すまないけど、その日はちょっとむずかしい」というメールを送ったら、「つまり来るのか来ないのか?ハッキリ言ってほしい」とやや怒気をふくんだメールが返ってきて気まずい思いをした。

あとでそのイギリス人と話をしたときにこの話題がでてきた。
彼の意見では、日本人は誘いを拒否することに強い抵抗感を感じるから、あいまいな表現で伝えようとする。
イギリス人ならイエス・ノーをハッキリさせることにためらいはなくて、「悪いけど、それには行きたくない」と言うのはイギリス人ならまったく問題ない。
人によって趣味や価値観が違うのは当たり前だから、「それは興味ない」と言うのもOK。(もちろんそれなりの言い方はあるだろうけど)
イエスかノーか、相手に答えを考えさせるようなあいまいな表現をするのは失礼だから、自分にそういう言い方はやめてほしいと言う。

またアメリカ人から、心で思っていることと違うことを言うのはキリスト教の考え方で悪いこととされていると聞いた。
でも、思ったことをそのまま言葉にするのは非常識で、ペルー人と同じように表現や言い方でデリカシーは必要だ。

 

思っていることを言わない。
ストレートに自分の考え方を相手に伝えないのは、昔からの日本人のイメージで、太平洋戦争の前か最中にアメリカが制作したこの動画でもそのことに触れている。

 

*画像はNHKの番組「映像の世紀」のキャプチャー

アメリカ人と違って、不満や怒りがあってもそのまま口にしない。
でも、最近はアメリカナイズドされた日本人が多くなったと思う。

 

さて、「一般的に外国人は、自分が思ったことをはっきりと言う」と書いたマレーシア人に、質問を投げかけた日本人が「日本人の「恥の文化」という言葉をご存知ですか?もしよかったら、これについて調べてみてください」と返信した。
そしたら、マレーシア人からこんな言葉が返ってきたのを見て笑ってしまった。

「別に研究したくない。わたしが10年間日本にいた経験をいかした意見です。」

日本人なら、「ありがとうございます。あとで調べてみますね」と書いてスルーする人が多いと思う。

 

 

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5 件のコメント

  • 今回のブログ、面白い文化論ではあります。が、もはや既に、このブログ記事自体が「曖昧で分かりづらい日本人の表現」の実例になってますね。下記の箇所です。おそらく多くの外国人が「何が言いたいのか???」と頭をひねることでしょう。なお()内は私が勝手に補った箇所です。

    >またアメリカ人から、心で思っていることと違うことを言うのはキリスト教の考え方で悪いこととされていると(私は)聞いた。
    >でも、(そのアメリカ人の意見はそうなのだろうが、)思ったことをそのまま言葉にするのは非常識で、ペルー人と同じように表現や言い方でデリカシーは必要だ(と私自身は考える)。

    どうですか? もしも上の文章を英語に直すのであれば、カッコ内を補うのは当然だとブログ主さんも思うのではないですか?
    日本語の場合にのみこのような省略が成立するのは、日本語に特有のルール、すなわち「主語や主題を明示しないでも、それまでの文章の流れに基づいて聞き手はそれを当然のように推定できる、それを暗黙の前提条件とする」があるからです。外国人にとっては、このルールが実にむずかしいのですよ。

    ***

    またもう1点、「日本人は、相手を傷つけないように忖度して、特に否定に関しては曖昧な言い方をしがちである」という見解がありますが、それが正しいのは半分だけであると私は思います。(←わざと英語的表現で。)
    なぜなら、日本人は「相手を傷つけないこと」もさりながら、「(相手から否定的な感情を向けられて)自分が傷つくのを恐れる」ために、それを避けようとして曖昧な言い方をすることが多いからです。

  • そうなんですよね。
    よく主語を省略するのが日本語の特徴です。
    むかしは私もいちいち主語を書いていましたが、それでは文が長くなってくどいので今は省略してます。
    外国人にはむずかしいでしょうね。ネットの書き込みでは「Went to~」と、 Iを省略する場合もがありますが、話し言葉ではしないでしょう。

  • でもって、他のブログ記事へのコメントでちょっと書いたことなのですが、「主語や主題語の省略」って、必ずしも日本語だけの特徴じゃないんです、多くの日本人は勘違いしているようですけど。むしろ、あそこまで何でもかんでも先頭に主語を立てる必要のある文法は、英語くらいのものなのです(英語で主語を省略するのは命令形の「you」だけ、これはおそらく相手に向かって直接言うからなのでしょう)。天気が雨であることを言うのに、どうして無理やり It なんて主語が必要なんですかね? 面倒くさい。英語話者って馬鹿なのか?
    たとえば、古代ローマ時代に広くヨーロッパを中心とした地域の標準語であり、17世紀くらいまで国際共通語(=キリスト教会公用語・学術界標準語)であったラテン語なんかでも、主語はしばしば省略されるのが普通でした。
    それがどうしてラテン語の影響も多大に受けたはずの英語で主語が必須であるようになったかと言うと、英語は、色々な国で使われている間に動詞の格変化が非常に簡略化されてしまった(今では三人称単数語尾-sとそれ以外だけ)ことが原因らしいです。つまり、主語に応じて動詞が細かく格変化する(1人称、2人称、3人称、単数、複数、男性、女性、中性、ヒト、モノ)ならば、必ずしも主語は明示されてなくても簡単に推定できた。たとえば日本語の男言葉・女言葉みたいにです。日本語の話し言葉って話し手の性別は簡単に類推できますよね。
    ところがその動詞格変化が非常に簡略化されて、主語代名詞の数も極端に少なくなった(1人称はIだけ、2人称はyou だけ、日本語だったらどちらも無数にあります)ものだから、その結果、少なくとも主語を明示しないとその動詞の主語が何であるのか簡単には推定できなくなってしまったと、そういうことらしいです。
    (以上、金谷武洋:日本語は敬語があって主語がない より。)

  • なるほど。
    私のまわりにいる外国人は「日本語はよく主語を省略する」と言うので、その影響が大きかったですね。
    ただそれが「日本語だけの特徴」とは書いていませんので、誤解のないようお願いします。

    主語を省略する言語でも、動詞やなんかで主語をあるていど特定できるものは多いです。
    でも日本語にはそれがなく、そういう言語は711のうち61ですから世界的には少数といえます。
    興味がありましたら、ここをご覧ください。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/主語

  • その論考は私も読みました。率直に言って浅いですね。特に日本語についての考察がなってない。
    その論考の中でも少しは言及されていますが、日本語における「(動作の)主語」または「主題語」のうちで、重要度がより大きいのは「主題語」の方です。この点を深く考察しない限り、日本語に関しては適切な考察ができるとは思えません。英語でも主語のことをsubjectと言いますが、この単語の意味は「主語」でもあり「主題」でもあります。
    ところが西洋言語学では、主語のことは扱っていても、主題語について記述されることはほとんどありません。それはなぜかと言うと、英語をはじめ殆どの言語学では、文章中における単語の役割を単語単位で考えているからです。
    日本語の主題語は副助詞『は』で示されることが多いです。しかもその主題語が、一つの文章中だけでなく、複数の文章や段落全体に渡って冠せられる場合が多い。それはつまり、日本語の「~は」という短い表現を英語に翻訳しようとすると、「Followings are about ~」とか「These affects are presented on ~」などと長々しい英語に翻訳しなければならないケースが多いということです。これは「~は」による主題の提示が日本語に特有の機能だからです。このことは、おそらく、話し手と聞き手の存在する「場」の概念に関係しているのだと思います。
    外国語にはこのような機能を有する言語要素がほとんど備わってないので、外国人には難しいのでしょう。

    ***

    あと、日本語の動詞には格変化がほとんどないのに、主語を省略する(できる)場合が多い理由は、おそらく、日本語の主たる機能に関係しています。それは、日本語の主たる使用目的が、第三者的な観点から事物に関して叙述することにはなくて、話し手と相手との間での感情のやり取り(恋愛感情とか)を担うための言語であったからであると推定します。
    会話の相手が決まっていれば、文章の主語は自分か相手かのどちらかしかありませんから、特に主語を必須とする訳ではありませんよね。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。