「世界各国がそれぞれ独自の単位を使っていたら、いろいろとめんどくせー」ということで、フランスがメートル(m)という、いまでは世界共通の長さの単位を作り出した。
ということを前回に書きました。
今回はこの記事を書いていて思いついたこと、日中2人の天下人の同じと違いについて書いていこうと思う。
それまで複数あった国を1つにしたあと、統一者がしないといけないことは度量衡(長さ・体積・質量)の統一だ。
2000年以上前の中国で、戦国時代を終わらせた秦の始皇帝は、切れ者の宰相・李斯(りし)とともに度量衡をはじめとして、通貨や荷車の軸幅(車軌)なども全国共通とした。
荷車の軸幅というのは言ってみれば列車のレールの幅だから、地方によってこれが違うと列車の運行がとんでもなく面倒になる。
だから、始皇帝がそれをひとつにしたというのも納得ナットク。
ちなみにいまは鉄道会社によってレールの幅(軌間)はバラバラだけど、新橋―横浜間で日本で初めて鉄道が開通した1872年からしばらくの間、軌間は大隈重信によって1067mmと決められていた。
秀吉は右手の指が6本あって、信長から「六ツめ」と呼ばれることもあったという。
天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。
日本でも同じく戦国時代を終わらせた豊臣秀吉が「太閤検地」をおこない、これによって田畑の面積は次のように定められた。
1歩(ぶ)が一坪(畳二畳分)で、30歩で1畝(せ)、10畝で1反(たん)で10反で1町。
*江戸時代には一反の土地からおよそ一石(150㎏)の米がとれて、現在では品種改良などの結果、一反から500kgほどのお米がとれるという。
このとき秀吉のしたことについて、くわしいことは「nippon.com」の記事(2020.04.14)をどうぞ。
全国統一を実現した秀吉は、度量衡を統一し、全国に役人を派遣して土地の生産力を石高(米の生産量)で算出、税収の安定徴収化を図った。
太閤検地では容積の単位も同じにされて、1升が1.8ℓ(=10合)となった。
江戸時代、人1人が1年間で食べる米の量が1000合=1石で、これだけのお米を買うのに必要な金額が1両だった。
くわしいことはこの記事を。
知ってましたか?すっごく人間的な、「石」「合」「両」「坪」の単位。
度量衡については明治8年にも、度量衡取締条例が定められ、伊能忠敬が考案した折衷尺(1尺=約30.304cm)が採用されたり、匁(もんめ)では1匁が3.756521gとなったりする。
まーくわしいことはここを見てくれ。
始皇帝
こんな感じで始皇帝と豊臣秀吉、中国と日本の2人の天下人は統治を安定させるために度量衡を統一したけど、大きな違いもある。
始皇帝は焚書坑儒によって思想まで”統一”しようとしたけど、秀吉はそれをしなかった。
「皇帝!儒者たちが秦の統治体制を批判しています」と李斯がこれらの弾圧を進言して、始皇帝はこれを受け入れた。
始皇帝にとって最も恐ろしい事態は革命が起きて、国とともに一族が滅ぼされることだったから、それにつながる芽は小さいうちに摘み取っておかないといけない。
それで体制に批判的とされた本を燃やし(焚書)、それを唱える儒者を坑(穴)に生き埋めにした(坑儒)。
盧生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝は独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した
政権を批判していた人間がある日とつぜん“消えてしまう”ことは、現代でも独裁国家である。
小篆体の字体で書かれた「始皇帝」
近所の中国料理店でこんな文字を見た。
秀吉はこの点が違っていて、始皇帝のように批判を徹底的に排除して「思想の統一」を図ることはなかった。
この理由は日本と中国の歴史の違い、つまり易姓革命という思想の有無にある。
易姓革命は孟子がとなえた王朝交替の理論で、皇帝が悪政を行って民が苦しむのなら、天は天命を革(あらた)めて、もっと徳のある人間を天子(皇帝)にして姓(王朝の名)を易(か)えるという説。
中国の歴史は秦の始皇帝から1911年の辛亥革命まで、この革命思想に基づいて、皇帝が殺害されて新皇帝が即位し、新しい時代(王朝)が始まるということの繰り返し。皇帝は何度も変わるけど、皇帝が治めるという統治体制は変わらなかった。
隋唐宋元明清…といった中国の王朝交代は日本では一度も起こらずに、天皇家は古代から現代まで続いている。
これが中国史と日本史の決定的な違いで、そのことは中国皇帝(宋の太宗)も気づいてこうなげく。
上(太宗)は、その国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は遐久(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古の道である
「宋史日本伝 (岩波文庫)」
「古の道」というのは、日本では理想的な政治が行われているということ。
当時のイエズス会宣教師に「全日本の比類ない絶対君主となった」と評された秀吉でも、天皇を倒して自分が新天皇になるという易姓革命はしなかった。
そんな中国風の考え方で日本を統治できないことを知っていたのだろう。
ただ自分を非難する落書を見つけたときは激怒して、犯人を探し出して7人の鼻を削いで耳を切ったうえで処刑した。
秀吉が戦国時代を終わらせて、天下統一を達成させることができたのは天皇の権威をうまく利用したから。
天正16年(1588年)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。
易姓革命のなかった日本では、始皇帝がしたような焚書坑儒は必要なくて、天皇から日本の支配を任されればよかったのだ。
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