同じ国に住んでいても、価値観や考え方は世代によって違うもんだ。
LINEが今月5月に発表した「年代ごとの流行語や認知度」に関する調査結果によると、日本の10代がよく使う流行語「えぐいて」や「レベチ」は30代以降になるとかなり通じなくなる。
そもそも30代・40代の印象に残る流行語が「チョベリグ、チョベリバ」、40代では「だっちゅーの」、50代からは「ナウい」だから、この世代の人たちと10代で共通している価値観を探すほうがむずかしい。
でも日本人には保守的なところがあって、科学的な根拠のない、むしろ迷信に近いような古い考え方が強まっている場合もある。
人の迷惑も考えないで、自分勝手なことをしたり、残酷なことをしたりする人について、「バチ」があたると思うか?
読売新聞社がそんな質問で世論調査をしたところ、「ある」と思う人は76%で、「ない」の23%を3倍以上と大きく上回った。
1964年に同じ質問をしたときには、「ある(41%)」と「ない(40%)」が拮抗していたから、56年前より現代の日本人の方が、「バチがあたる」という考え方を信じる傾向が大幅に増えていることがわかる。
くわしいことは読売新聞の記事をどうぞ。(2020/05/29)
自分勝手や残酷なことして「バチがあたる」…信じる人76%、半世紀前より割合高く
ちなみにこの「バチ」というのは「罰」のことで、「罰が当たる」というのは辞書的には「悪行の報いとして、神仏から現世で苦しみを与えられる」(精選版 日本国語大辞典の解説)という意味。
他にも歌舞伎で、実役が敵役に打たれる場面で観客がこう言うらしい。
さて、バチがあたるかどうかは、そうなる場合もならない場合もあって、科学的にそれを証明することは不可能。
この考え方は因果応報や自業自得といった仏教思想と同じだけど、「罰が当たる」はそれよりやや軽い感じだと思う。
これは結局、「そう信じるかどうか」という個人の信仰や考え方に属するものだ。
同じ社会で同じ時代を生きている日本人の間でも、言葉が通じないほど価値観が違うのに、こんな「迷信」を信じる人がいま増えているという。
これにネットの声は?
・なんらかのバチを信じてる時点でもう無宗教ではありません!
・蚊潰しまくってるけど
・不倫して罰当たった奴を何人も見てきたw
・松阪市にあるおばけ灯籠を動かした人達が死んでいったお話があるから、祟りやら呪いはあると思います
・日本教のご神体の一つ
・他人が悪いことしても、バチは当たらないけど、俺が少しでも悪いことや調子乗ると、何故か必ずバチが当たるわ。
・さすがコロナの集計にファックス使ってる国だな
なんで日本では「バチが当たる」という考え方が強くなっているのか?
その理由はいろいろあるだろうけど、海外旅行や外国人との付き合いの経験から言わせてもらうと、これは日本人の国民性によるもので、相手に直接怒ったり抗議したりして不快な思いを発散させるのが苦手だから。
「日本人は怒りや不満をストレートに見せないし、表現もしない」というイメージは外国人の間では鉄板。
いままでアジア・欧米・中東などいろいろな外国人に聞いてきたけど、この日本人像にはみんなが同意する。
日本人は自分の思いを心にしまって外に表さない。
そんな印象は昔から海外にあって、太平洋戦争の前か最中にアメリカが制作したこの動画でも日本人をそう紹介している。
*画像はNHKの番組「映像の世紀」のキャプチャー
考えていることと言うことが違う。
そんな日本人の国民性「本音と建前」はいまやワールドワイドに有名で、英語版ウィキペディアには項目が作られている。
In Japan, honne are a person’s true feelings and desires (本音, hon’ne, “true sound”), and tatemae are the behavior and opinions one displays in public (建前, tatemae, “built in front”, “façade”).
でも、たとえ黙っていたとしても、日本人に思いがないわけではない。
本当は相手に文句を言いたいところでも、怒りを表現するのが苦手だったり面倒くさかったり、またはそれをグッとこらえないといけない場面が日本では多いから、自分を納得させるために「いまに見ていろ。必ずバチがあたるから」と心やネットでつぶやく。
だから「泣き寝入り」という言葉もきっと日本人から消えない。
また悪いヤツは必ず罰を受けてほしいと願うから、こういう考え方を信じる。
「いつかヤツにはバチがあたる」と思うことで、理不尽な社会で心のバランスをとろうとする。
ネットで複数の人間がある人物を攻撃して、その人が自殺すると一斉にアカウントが削除されたということを知ったら、「必ず天罰を受けろ」と誰でも思うはず。
これは見方を変えれば、そういう卑怯な人間への罰を神や仏にゆだねているということにもなる。
「因果応報」はもともと日本に伝統的にあった思想だし、感情や気持ちをハッキリ表現できないというのは日本人の国民性だから、「バチがあたる」という考え方は精神安定剤になる。
匿名で誹謗中傷して、いざとなったらすぐ逃げる。
そんなネット社会の現代では、納得いかないことが増えているのかもしれない。
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let’s多文化:いろんな宗教・アニメ好きの外国人と初詣に行く
もう一つ、最近になって「バチが当たる」と考える(信じる)日本人が増えている理由があります。
最近の、特に若い日本人は、「バチが当たる」という表現に対して、「NETの世界で不特定多数の人間から避難されるかもしれない」という感覚を重ねているのではないでしょうか。
最近の芸能人とか、ブロガーとか、ユーチューバーとか見ていると、「そんなに世間からの非難が怖いならば、世間に向けて発言などやめときゃいいのに、アホだなぁ」と思うことが多々あります。
誰かに向けて何かを発言すれば、当然、発言の相手を含めた多数の人々から反発や非難を受けるリスクはありますよ。そのリスクを犯すことが、一般社会に向けて発言する者の代価であり責任でしょう?
あえて非難を受ける勇気(あるいは、それをさばく根気)がなければ、発言しないで黙っているか、徹底的に匿名性を確保することです。
世の中に不満があるなら、・・・(以下、実行が容易な順に)
1.自分を変えろ、
2.それができなきゃ、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んで孤独に暮らせ、
3.それもだめなら、・・・
自分以外の世の中の全員の考え方を変えてみせるしかないですね。
世間に対して声を上げる以上、反論や異論は返ってくるでしょうね。
それならいいのですけど、個人の人格否定とか行き過ぎた中傷コメントもあります。そういうのは「バチがあたる」では済まないので、特定して社会的制裁を受けるべきです。
>個人の人格否定とか行き過ぎた中傷コメントもあります。そういうのは「バチがあたる」では済まないので、特定して社会的制裁を受けるべきです。
そう思いますか? それ、とても危険な考え方ですよ。
なぜなら、その「人格否定」や「行き過ぎた中傷」であると判断するための主観的な基準は、個人によってぜんぜん異なるからです。どこからが名誉棄損や人格否定・中傷であり、犯罪行為となるのか、きちんと法律で明文化して定義づけること(それがつまり社会の合意基準を定めることです)により、初めて、法治国家として公的に行うべき法律行為となり得る。そのことを忘れちゃいかんです。
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SNSなどの手段が容易に個人の手に入るようになった現代ですが、現代人(特に日本人)は、社会へ向けて自分の考えを発信することのリスクをあまりにも軽視しているような気がしてなりません。
ある意味、犯罪や戦争をしかけるのと同じ。情報発信には覚悟が必要なんです。
政治家でなくても、言葉の重さを知るべき時代と言ってもよい。
心の鎧を固めましょう。
考え方は人それぞれですが、一人の人物を集団で人格否定・誹謗中傷して、自殺に追い込む社会の方が私には恐ろしいです。