いまから2日前の火曜日、7月7日は七夕の日だった。
日本で全国的にお願いごとをするのは多分この日だけで、そのルーツをたどると、古代中国でおこなわれた行事・乞巧奠(きこうでん・きっこうでん)にいきつく。
日本のおりひめ(織り姫)は中国では「織女」と言い、神(天帝)の服を織る仕事をしていた。
そのことから女性がこの日に、手芸や裁縫などの上達を願う儀式(乞巧奠)をおこなうようになって、それが奈良時代に日本へ伝わり宮中行事となった。
日本初の乞巧奠は755年に清涼殿の庭で行われたという。
乞巧というのはきっと「巧(たく)みになることを乞(こ)う」ということで、「奠」は物を供えて祭るという意味。
まーくわしいことはここを見てくれ。
一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた
この日はグーグルも七夕バージョン
これは5年ぐらい前に、日本の中学校で英語を教えていたアメリカ人女性から聞いたはなし。
あるとき日本人の英語の先生から、「もうすぐ七夕だから、こんな授業をしたらどう?」と次のようなプランを提示されたのだけど、それを聞いた彼女は「え?マジで?」と驚いた。
ではこの中で、アメリカ人のビックリポイントは何だったでしょう?
1、短冊に英語で願いごとを書く。
2、一人ひとりそれを発表する。
3、最後に笹竹にくくりつける。
答えは2番。
そのアメリカ人が言うには、願いごとというのは秘密にしておくもので、他人に話したらその願いはかなわなくなる。
つまりみんなに発表というのは、彼女的には絶対にやってはいけないヤツだった。
願いごとをして、なんで次の瞬間にその可能性を自分で破壊するのか?
でも日本人の先生から、七夕ではそれが当たり前で、みんな短冊には誰に知られてもいいことを書いているという話を聞いて、彼女は日米の文化の違いを知った。
京都・伏見稲荷の絵馬
そのあと別の日本人に連れられて神社へ行って、絵馬の説明を受けたときに、そのアメリカ人は七夕の短冊を思い出した。
アメリカでは(キリスト教では?)願いごとは心の内に秘めておかないといけないけれど、日本人はオープンにしてしまう。
理由はわからないけど、願いごとに関しては日本とアメリカでは価値観が大きくちがう。それも真逆だから、この文化の違いは彼女にとってかなり大きなインパクトがあった。
この話を聞いたとき、「それなのに」と彼女はこう愚痴る。
それでいて日本人はコミュニケーションでは、「イエス・ノー」「好き・嫌い」といったアメリカ人ならハッキリ言うべきことを隠して、あいまいな表現をするから何を考えているのかとても分かりづらい。
このへんも日米では正反対だった。
>そのアメリカ人が言うには、願いごとというのは秘密にしておくもので、他人に話したらその願いはかなわなくなる。
>それでいて日本人はコミュニケーションでは、「イエス・ノー」「好き・嫌い」といったアメリカ人ならハッキリ言うべきことを隠して、あいまいな表現をするから何を考えているのかとても分かりづらい。
それはいかにも欧米キリスト教狩猟民族の文化らしい、乱暴で浅はかな考え方だと思いますね。
日本人の「願い事」には具体的な相手がいない、つまり原則として誰にも迷惑を及ぼさないような例えば祝い事だけを願う、だからこそ口にすることができるのですよ。しかしながら、「イエスかノーか」を答えるのは必ず誰か相手がいる場合です。つまり、日本人が「イエスかノーか」の返事を曖昧にすることが多いのは、相手のことを慮って、ひょっとして対立の原因になり「和を乱す」恐れがないか、用心してのことなのです。「和」を大切にする知恵の一つであると言えましょう。
これに対して欧米人の価値観では、イエスかノーかを相手に明示することしか考えてない。つまり、相手がどう考えていようが、まずは自分の考え方を相手に通告するのが最優先なのです。いわば宣戦布告と同じですね。ビジネス上の交渉事とか、契約とかも、基本的にはこれと同じ感覚です。
さらに、願い事を人前で口にしない、神様や神父様だけには伝える(懺悔する)こともあるのは、その願い事がもしかすると誰かにとって不利になる(それを聞かれてしまうとその相手から攻撃される)恐れがあるからでしょう。だから軽々しく口にはできないのですよ。
まあいかにも、これまで、他民族を戦争で征服して植民地化してきた歴史の長い文化の産物というにふさわしい、そういう考えであると感じます。