きのう1月14日は水戸黄門が亡くなった日。
時代劇でおなじみの水戸黄門、そのモデルとなった水戸藩の藩主・徳川光圀(みつくに)は1701年1月14日にこの世を去った。
それを追悼する意味で今回はラーメンについて書いていこう。
いまや日本の国民食で、海外でも高い人気と知名度を誇る麵料理のラーメン。
この中国の食べ物が江戸時代にやってきた背景には、その時代の激動の国際情勢が大きく関係している。
まずはそのへんのところを知っていこう。
1637年に起きた島原の乱(島原・天草一揆)を鎮圧してからの日本は超平和。
海外からみると江戸時代は奇跡と言っていいほど平和な時代で、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」をもじって「パックス・トクガワーナ」と表現する外国人がいるぐらいだ。
でも、光圀が生きていたころの中国はそれとは真逆。
モンゴル人の支配する元王朝を、漢人の朱元璋が中国から追い出して1368年に明王朝を成立させた。
ちなみにフォントの「明朝体」とはこの明朝のこと。
しかし1644年に農民反乱の指導者・李自成によって明王朝は倒された。(李自成の乱)
首都・北京を手に入れた李自成は「順王朝」を建国し新皇帝となったものの、まさに三日天下、直後に満州族の清に攻め込まれて順王朝は崩壊する。
逃亡していた李自成はその地方の農民に殺害されたというから、落ち武者狩りで殺されたと言われる明智光秀とここでも似ている。
満州族という異民族の支配を認めたくなかった儒学者の朱 舜水(しゅしゅんすい:1600年 – 1682年)は考えた。
「明を再興するには日本の支援が必要だ。そうだ 日本、いこう。」
ということで江戸時代初期にご来日。
当時の日本人は儒学を学んでいたから、優秀な朱舜水は各地で歓迎され、特に水戸光圀は彼を「師匠」として敬愛していろいろな知識を学びとった。
このとき朱舜水から教えてもらったことに「ラーメンの作り方」があり、光圀はそれを自分の得意料理にしたという。
現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある。
このことから、「日本で初めてラーメンを食ったのは水戸黄門だった」と言われるようになって、新横浜ラーメン博物館のオフィシャルブログにはこう書いてある。
ラーメンの薀蓄(うんちく)の中で、一番有名なお話は
「日本で最初にラーメンを食べた人は水戸黄門である」
ではないでしょうか?
*そのラーメンを再現した写真が上のブログにある。
だがしかし、この情報はいまではちと古い。
「ラーメンを初めて食べた日本人は徳川光圀」と長く言われてきたが、それより200年以上前の『蔭涼軒日録』に、経帯麺(ラーメンのルーツとされる麵料理)を食べたという記述があることが2017年にわかった。
さすがラーメン博物館、すぐに情報をアップデートしている。
今回、それ以前にラーメンのルーツとなる中国の麺料理が室町時代に食べられていたことがわかりました。
中華麺の定義は「かん水」を使っているということです。
だから光圀は「日本初」ではない。
でも、かなり初期にラーメンを食べた日本人であることは間違いない。
東京大学にある朱舜水の記念碑
清を滅ぼし、明を再興する!
という夢をかなえることなく、朱舜水は日本で亡くなった。
異民族の支配する中国で死ぬより、本人としてはこのほうが本望だったかもしれない。
いまの日本で朱舜水は「反清復明」を唱えた明の遺臣ではなくて、「ラーメンの人」として有名だ。
これが縁になって現在、朱舜水のお墓のある茨城県太田市と、彼が生まれた中国・浙江省の余姚市(よようし)は友好都市関係を結んでいる。
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