幕末の1848年、日本初のネイティブ英語教師が爆誕した背景

 

1月26日は「有料駐車場の日」。
1959年のこの日、東京の日比谷と丸の内に、日本初のパーキングメーター付きの公共駐車場が登場した。
15分につき10円という当時の駐車料金は、いまでは背筋の凍る料金になっているはず。

さてボクのまわりには、日本人による英語の誤訳が大好きな外国人が多々いて、あるイギリス人は「月極駐車場」の日本語訳、「the moon ultra parking」をすごく気に入っていた。
機械翻訳をそのまま書いたのだろうけど、これは誤訳を超えて誤爆のレベル。
大阪の地下鉄「堺筋線」が「Sakai Muscle line」になっていたのを知って、爆笑したアメリカ人もいる。

 

そんな誤訳ファンのアメリカ人から以前、「日本初の英語教師は誰か知ってるか?」と質問されて答えに詰まった。

それは、日本が「鎖国」という長い眠りから覚めて、本格的に欧米諸国と付き合うようになった幕末のころだろうという見当はついた。
でも具体的には知らない。

日本で英語を教える彼にとっては大先輩だったから、興味を持って調べてみたところ、「ラナルド・マクドナルド」(1824年 – 1894年)というイギリス統治時代のカナダで生まれた人物を知る。

 

ラナルド・マクドナルド(長崎市)

 

西洋人と原住民の混血だったマクドナルドは、子供のころ、自分たちのルーツは日本人だと聞かされていた。
日本へのあこがれを持っていた彼は、いつかその地を踏んでみたいと考えるようになり、1845年にニューヨークで捕鯨船の船員となった。

彼が日本行きを決意したのはこんな理由から。

・自分の肌が有色だっために差別を経験した。
・見た目が日本人に似ていたことから、日本語をふくめて日本の事情を学びたかった。
・鎖国によって欧米世界からは「謎の王国」と思われていた日本を知りたかった。

 

そんなことで1848年に北海道へ上陸(密入国)したマクドナルドは、 10日ほど現地のアイヌ人と暮らしたあと、日本人に捕まって取り調べをうける。

 

マクドナルド上陸の地(北海道の焼尻島)

 

密入国の疑いで身柄を拘束したといっても、当時の日本人はわりとやさしかったようで、松前藩藩主なんかはマクドナルドにお菓子を贈っている。

*このころ海外では、日本に不法入国した人間は処刑されると考えられていた。

とはいえ日本へやって来たのが1848年というのは、彼にとってラッキーだった。
というのは1840年のアヘン戦争で大国の中国(清)が敗北したのを知った日本は驚がくし、欧米諸国への見方を変えて少し親切に対応するようになったから。
くわしくは薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を参照あれ。

 

お菓子をもらったあとマクドナルドは長崎へ送られ、そこでまた取り調べをうけてお寺(崇福寺の末寺)に入れられた。
マクドナルドの立場は囚人も同然なんだが、長崎奉行は14人のオランダ語通詞を彼につけて英語を学ばせることをきめる。
この生徒の中には、のちに日米修好通商条約の交渉にかかわった名村 常之助(なむら つねのすけ)がいた。

ちなみにこの長崎奉行、井戸覚弘(いど さとひろ)の前に連れてこられたとき、頭を下げるよう指示されたマクドナルドは「自分はFreeman」だからとこれを拒否。
「無礼者め!」と怒らず、この男は肝がすわっていると感心した井戸覚弘もなかなかの人物だ。

日本で英語教育は1809年から始まっていたけれど、その情報はオランダ経由のもので、たとえば「name」を「ナーメ」、「learn」を「レルン」と発音するなど本当の英語とは別ものだった。
だから英語ネイティブの外国人が日本人を指導したのは、マクドナルドと14名の日本人(オランダ語通詞)が歴史上、このときが初めてとなる。
これは公式(幕府公認)のもので、プライベートならほかにあったかもしれない。

マクドナルドの取り調べに加わっていた森山 栄之助(もりやま えいのすけ)も彼の弟子となって本格的に学び、オランダ語と英語の2カ国語をマスターして、その後日本のために活躍した。
その森山から英語の教えをうけた人間には福地源一郎や福澤諭吉などがいるから、間接的に彼らもマクドナルドから学んだことになる。

 

マクドナルドはこのとき英語を教えていて、日本人がLとRの発音の区別に苦労していることに気づいたという。
まぁこの点は令和の日本人もまったく変わってない。

こんな「英語ネイティブと14人の日本人」の生活も、アメリカ船プレブル号が長崎に入港して終わりをむかえた。
北海道に到達してから約10か月後、マクドナルドはこのアメリカ船に乗って故郷へ戻っていく。

帰国後に彼が与えた情報は、日本に対するアメリカの見方を変えた。

帰国後は日本の情報を米国に伝えた。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えた。

ラナルド・マクドナルド

 

監禁されていたとはいえ彼に対する日本人の扱いはとても丁寧で、週に1度は豚肉とパンとバターを与えていた。
マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だったという。
彼の最後の言葉は「さようなら my dear さようなら」だったといわれ、「SAYONARA」の文字は墓碑に刻まれた。

 

オレゴン州のにあるマクドナルドの石碑
上の部分は鳥居をイメージしたもの

 

福沢諭吉

 

このあと開国した日本では、人びとが本格的に英語を学び始める。
するとこんな日本人が出てきて、福沢諭吉をあきれさせた。

英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないというような少年が出来てきた。
波多野承五郎などは子供の時から英書ばかり勉強していたので、日本の手紙が読めなかった

「福翁自伝 (岩波文庫)」

 

そして日本初のネイティブ英語教師が誕生してから150年ほどがたったいま、日本人の英語力はぐんぐんと上がって、「the moon ultra parking」や「Sakai Muscle line」にまで達した。
マクドナルドも森山栄之助もきっと草葉の陰で号泣している。

 

 

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2 件のコメント

  • >機会翻訳をそのまま書いたのだろうけど、・・・

    そうですね。ギャグを生む機会があれば、機械だってこの程度の意図的誤訳(?)ができるってことで。
    記事のテーマが誤訳だけに爆笑ものでした。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。