前に北部出身のベトナム人2人と話をしていたときに「南北対立」の話題になった。
人・ことば・文化などについて日本では東西に分けられることが多いけど、ベトナムでは南北に分けて考えるのが一般的だ。
ということで今回は彼らの話にふれながら、ベトナムと日本の「対立の歴史」について書いていこう。
もちろんこれは日本とベトナムの争いではない。
1970年代のベトナム戦争で北が南に勝利したことで、南ベトナムは北ベトナムに吸収される形で統一された。
あの戦争は実質的には、南ベトナムを全面支援したアメリカ軍と北ベトナム軍との戦いではあるものの、首都サイゴンを落とされた南ベトナム人にとっては「敗戦」になる。
この南北統一を北からみるか、南からみるからでは大きく違っていて、南ベトナムには北の人たちをこころよく思っていない、ハッキリ言うと嫌っている人が少なからずいる。
今回話を聞いた2人のうちひとりが南部ホーチミン市に住んでいたことがあり、どこからよそよそしさを感じたと言う。
もうひとりのベトナム人の姉が南部にいたときには、周囲に「壁」を感じて、親しい友人がなかなかできなくて悩んでいた。
また日本でベトナム人の犯罪が起こると、ネットには「北ベトナム人のしわざだ」と南の人が書き込むことがあるという。
勝者の余裕か北ベトナム人はあまり意識していないけど、南に対抗心や敵対心を感じている人が多いらしい。
ただ当たり前の話だがすべてがそうでないし、分断より協調を選ぶ人も若い世代では多い。
それに、日本に住んでるボクのまわりの南北のベトナム人は仲が良い。(ように見える)
北ベトナムの侵攻から逃げる南ベトナム人
南北の対立をなくしたいのか、ベトナム政府は国民に愛国心を強調する。
そんな話をしていると、「日本でも対立はありますよね?東京と大阪の人は仲が悪いと聞きました」とひとりのベトナム人が話題を日本にスイッチ。
そうは言われても東京・大阪、関東・関西の対立なんて、50年ほど前に武器を持って殺し合いをしていたのとは次元が違い過ぎる。
「フォーと生春巻きはどっちが美味しいか?」というレベル。
東京の人間が不祥事を起こすと、ネットで「まーたトンキン人のしわざか」とやゆする人がいても、それが大阪人とは限らない。
東京・大阪、関東・関西にあるのは「対立」というより差異だろう。
*ちなみに昔のベトナム北部は「トンキン(東京)」と呼ばれていて、16世紀にはトンキン王国(東京王国)が存在していた。
トンキン湾を漢字で書くと「東京湾」になる。
そのあたりの人間なら「トンキン人」でも間違いではない。
くわしいことはこの記事を。
それはちょっと違うなあと言うボクにもうひとりのベトナム人が同意して、「まえにベトナムの南北対立の話を日本人にしたら、それは会津と山口の関係に似ていると聞きました」と話す。
なるほどなるほど。
東京と大阪は的はずれだけど、それならわかるわ。
会津戦争
1868年(明治元年)に、旧幕府軍と長州・薩摩を中心とする新政府軍とのあいだで戊辰戦争がはじまった。
この中の戦いのひとつで、主に福島県会津地方でおこなわれたのが会津戦争。
これが会津人にとってどんなものだったのかは、この時代を生きた会津藩士「柴五郎」が残した記録をみればわかる。
まだ戊辰戦争がはじまる前、平和だったときに母親と過ごした思い出を柴はこう記す。
余の躾はほとんど母に負うところなれど、一面慈愛にあふるる母性として余を愛しみ、余を膝に抱きて桃太郎などの童話、百人一首、落花の雪の長歌などくりかえし教えられ、自らも楽しみおりしように思われる。(中略)いまなお一部を暗記しおりて、それを口にすれば、なつかしきかな、母の膝の温か味を感じて思慕の情やるかたなし。
「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 (中公新書) 石光真人 編者」
こんな平和な生活は、柴が8歳になったときとつぜん失われる。
京都や江戸で旧幕府軍を打ち破った新政府軍の軍靴の足音が東北にも聞こえてくるようになる。
会津藩は16~17歳の武家の男子を集めて組織した「白虎隊」で新政府軍を迎え撃つも撃退され、会津若松城が落とされた。
*ベトナム戦争でいえばサイゴン陥落だ。
降伏直後の会津若松城
このとき自宅に戻ろうとした柴五郎は、猛烈な炎を前にしてそれをあきらめる。
そのときのことをこう振り返ってこう記す。
口惜しきことかぎりなく、情けなきこと忍びがたく、母上、母上とさけびつづけ、地をたたき、草をむしりて号泣す。
このときすでに祖母、母、姉妹が自殺して亡くなっていたことをあとで聞かされた。
80歳を過ぎた柴五郎は「血を吐く思いなり」という気持ちでこの手記を書いたという。
会津戦争のときには、多くの会津人がこんな思いをした。
(ただそれは主に武士階級のことで農民はそうでもない)
柴五郎
戊辰戦争は終わり、明治という新時代が始まった。
このあと旧薩摩藩士らによる西南戦争が起こると、多くの旧会津藩士が西郷隆盛への恨みを晴らすために、明治政府軍に志願して戦ったといわれる。
戦争に負けた西郷が自殺したことに対して、柴五郎は「当然の帰結であり断じて喜べり」と語った。
それでも会津戦争での「口惜しきことかぎりなく、情けなきこと忍びがたく」という無念は後世の人に受け継がれて、その怒りは主に長州人、いまの山口の人に向けられている。
1986年に長州藩の中心だった萩市が会津若松市に対して、「もう120年もたったので」と友好関係の構築を申し出ると、「まだ完全に許したわけではないが、100年前のことにこだわり過ぎてもいけない」と会津若松市もこれを受け入れた。
…というほど甘くない。
会津若松市民の間から「我々は(戊辰戦争の)恨みを忘れていない」、当時の福島県知事松平勇雄を指し「会津藩主の孫がまだ生きている」との意見があったため、これを拒否した。
これに匹敵する地域対立は日本にないだろう。
でも山口に対する会津の人の思いも人それぞれで、すべてが同じではない。
南ベトナム人と同じで、世代によって価値観や考え方も違う。
ということで、ベトナム戦争で勝利した北ベトナムと負けた南ベトナムの関係は、山口と会津の関係に似ていて、南ベトナム・会津の人たちはいまも複雑な気持ちを持っていることはご理解いただけだろうか。
でも、ベトナムと日本では大きな違いがある。
戊辰戦争の勝者である山口には「先人が申し訳ないことをした」という思いがあって、会津には基本低姿勢だ。
2007年に山口出身の安倍前首相が会津若松市を訪問したときには、「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語ったほど。
安倍氏の顔を見て、会津戦争が思い浮かんだ人は多かったはず。
でも、北ベトナムの有力政治家が南ベトナムの人たちに向かって、公の場で謝罪することは考えられない。むしろ、「アメリカから解放してあげたのはオレたちだ。感謝しろ」という思いだろう。
一般の北ベトナム人も罪悪感なんて1ミリも感じていないと思う。
これはベトナム人の意見
・北朝鮮と韓国と同じ事。
・水と油と一緒です….😂。
噛み合わないです….どうしても….😂。
考え方が違うですから….😥。
北と南の言葉の使いかた(丁寧語)から違うし….🤔。
ベトナムの有名な詩や俳句は….ほとんど南で教育を受けた人が作ったので、想像力が違うですよ。😊….
おまけ
1900年に中国で義和団事件が起きたとき、柴五郎は欧米列強とともに、北京に閉じ込められていた市民や外交官を守って戦い、欧米各国から賞賛され数々の勲章を授与された。
世界的に有名なタイム誌も柴の活躍を紹介する。
これは英語版ウィキペディアの説明。
He protected the citizens and diplomats alongside several Western powers during the siege, and was subsequently awarded decorations by many of the western nations in the Eight-Nation Alliance. His name was also mentioned in The Times.
柴五郎はこのメダルを母に見せたかったはず。
良い悪いは別にして、会津の人たちは絶対にあの戦争を忘れない。
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