ではクエスチョン。
近代の日本で国際結婚が法的に認められたのは、一体いつのことでしょう?
答えは、1873(明治6)年の3月14日。
これ以前にも政府から認められた国際カップルはいたらしい。でも、明治政府が国際結婚を法律で認めたのはのこときから。
だから3月14日は「国際結婚の日」になっている。
ちなみにこれを知ったある韓国人は「今の時代だと国際結婚ではないと大変かも知れません」と言う。
韓国ではいま結婚が難しくなっているらしい。
さて国際結婚が“解禁”されたあと、五千円札や『武士道』で有名な教育家の新渡戸稲造がアメリカ人女性のメリー・エルキントンと結婚したり、野口英世が同じくアメリカでメリーという女性と出会って結婚した。
これらは“成功事例”と言っていい。が残念ながら、そうはいかなかったこともある。
この上品そうな女性、黒田雅子(1912-1989)をご存じだろうか。
来日した海外の王族が日本や日本人をとても気に入って、「ぜひ日本女性と結婚したい」と言い出したとしたら?
そんなアニメの第一話のようなことが昭和初期の日本であった。
当時アフリカで唯一の独立国だったエチオピアは、日本との関係を重視していて両国関係はとても良かった。
1931年に制定された初の成文憲法(エチオピア1931年憲法)は、日本の憲法(明治憲法)を参考にしてつくられたもの。
両国の貿易取引も盛んになって、1933年にはエチオピアでの日本製品の市場占有率は70%となる。
そしてエチオピアの外務大臣が「日本に綿花の耕作地などの土地貸与を許可するつもりだ」と話すなど経済関係も強固となっていく。
それはエチオピアを相手に儲けていた、伊仏英を刺激させるほどに。
そんな国から友好使節団といっしょに、エチオピア皇帝の甥(おい)であるアラヤ・アベベ殿下が日本へやってきた。
アラヤ・アベベ
アラヤ殿下は日本がとても気に入り、ぜひ日本人女性と結婚したいと希望したという。
エチオピアとの友好を深めたいと考えていた日本にとってもそれは好都合。
そんなことから「ぜひ」と話は盛り上がって、華族の黒田広志子爵の次女・雅子との結婚がきまった。
だが好事魔多し。
日本とエチオピアとの関係強化を嫌ったイタリアが邪魔しまくって、このめでたい話は白紙になる。
時事新報のパリ特派員は、エチオピアの王子と日本女性との縁談は、エチオピア利権を狙うイタリアを刺激し、ローマ政府はエチオピアを威嚇して結婚解消を迫ったと報じた。
この縁談を強く反対していたのがムッソリーニだったという。
絶対的な権力を握ってイタリアに君臨していたものの、最後は処刑されて、死体を逆さづりにされたあの独裁者だ。
縁談が流れた2年後の1936年に、エチオピアはイタリアの植民地となった。
この国際結婚がうまくいっていたら、日本とエチオピアはいまごろどんな関係だったか。
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