いま知人のポーランド人が首都ワルシャワにいて、「こんな店見つけた!」というメッセージと一緒に送ってくれたのがコレ。
日本の雰囲気ただようこの店は何を商っているのか?
店の名前は「アリガタ」。
と思ったら実は「ニイガタ」で、ここはおにぎりを売る店だったでござる。
となると気になるの具。
どんな種類があったか聞くと、この店で販売していたのは梅干し、鮭、焼き芋、ツナ、納豆のおにぎりなどで、「焼き芋おにぎり」は斬新だけど、基本的には日本と変わらないラインアップ。
それにしても、ポーランド人が梅干しや納豆のおにぎりを食べるというのはかなり意外だ。日本とは別物で、地元の人の舌に合わせたものかもしれない。
一部の日本人が昆虫食でするように、「ゲテモノ料理」や「罰ゲーム」みたいに食べてたら国辱なんだが。
親日国のポーランドについてはこの記事を読んでもらおうか。
いまやおにぎりはワールドワイド。
タイや韓国へ行った時にも梅干しのおにぎりを見て、「おっ」となつかしさを感じたことがある。
こんなふうに日本を越えて、いまでは東ヨーロッパの路上やアジアの国でも売っている梅干しおにぎり、これが世界的な食べ物になった元々の始まりは、誰もが中学校の歴史の授業でならったあの天下分け目の戦いにある。
鎌倉時代のこの人がその一戦の主役。
日本史に決定的な影響を与えたその戦いは1221年の「承久の乱」という。
後鳥羽上皇をトップとする朝廷の軍と、上の北条泰時(やすとき)を大将とする鎌倉幕府軍が日本の支配権をめぐって全面対決した。
「天下分け目の戦い」っつーと1600年に行われた、徳川家康ひきいる東軍と石田三成の西軍によるは関ヶ原の戦いが有名だ。その少し前の1582年に、豊臣秀吉と明智光秀が戦った天王山の戦いも知られている。
でもこの二つの決戦では、徳川家康・石田三成・豊臣秀吉・明智光秀の全員が武士だから、誰が勝ったところで日本は武士が支配する世の中になることはきまってる。
でも、承久の乱はそうじゃない。
この勝敗によっては天皇(朝廷)か将軍(武士)のどちらかが日本の頂点に立つことになるから、支配体制そのものが根本的に変わってくる。
日本の歴史のなかで、天皇側と幕府側が直接戦ったのはこの一戦だけ。
朝廷から政権を奪った源頼朝が1192年だか1185年だかに、武士による政権・幕府をつくって、日本の統治を始めたものの、その権力基盤まだまだ安定しているとはいえなかった。
それを決定づけたのが承久の乱だ。
鎌倉幕府がこれに勝利したことで朝廷に対する絶対的な優位が確立され、その後は安定して日本を統治することが可能となる。
承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。
日本における「朝廷<越えられない壁<幕府」の関係を構築し、明治維新までの約700年間におよぶ武士の支配の基盤をつくったことに、承久の乱の歴史的な意義がある。
これは関ヶ原の戦いや天王山の戦いにはなかったものだ。
もちろんこれは政治権力の話で、権威について将軍が天皇に勝てる要素は1ミリもない。そもそも将軍は天皇から任命されて、初めてなることができるのだから。
承久の乱で幕府側が勝利した原因はなにか?
それには鎌倉御家人の武力や泰時の知略のほか、頼朝の妻・北条政子が「故右大将(頼朝のこと)の恩は山よりも高く、海よりも深い~」と演説し、御家人の動揺をしずめて士気を高めたことがあげられる。
そして隠れた主役の「梅干しおにぎり」だ。
梅干しは平安時代の貴族が食べていたけど、なんせ酸っぱいから、あまり人気はなかった。
でも梅干しは保存が利くし、殺菌効果もある。
鎌倉幕府はそんな有能な梅干しとご飯で「梅おにぎり」をつくって、自分たちの兵士に配って軍食とした。
テレビ番組の『世界一受けたい授業』で歴史研究家の河合敦氏が、そんな理由から承久の乱をきっかけに梅干しを食べる習慣が全国に広まったという。
梅干しおにぎり(ご飯)のパワーは、
・幕府の勝利
・後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の島流し
・六波羅探題を設置して朝廷を監視することで京都を完全制圧し、朝廷に対する幕府の優位を確立
の3点をあげるだけで十分だろう。
このあと梅の栽培が増えていって、江戸時代になると全国の庶民も梅を食べるようになって現在にいたる。
ここまでをまとめると、まず承久の乱がきっかけになって梅干しを食べる習慣が日本に広まって、ここ数十年のあいだで来日外国人やアニメやマンガ、SNSでOnigiriが世界中に知られるようになる。
ポーランドの街にある「ニイガタ」も、おっそろしく元をたどると幕府による支配を決定づけた承久の乱にいきつく。
というのは言い過ぎとしても、かすかなつながりはある。
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> 日本における「朝廷<越えられない壁<幕府」の関係を構築し、明治維新までの約700年間におよぶ武士の支配の基盤をつくったことに、承久の乱の歴史的な意義がある。
それだけではありません。当時の西国と東国の違いとして、「通商経済地域と農業(コメ作り)経済地域」という違いがあります。承久の乱において東国の鎌倉幕府が「武家政権を確立した」ことは、同時に、それまで平家や瀬戸内海を中心に動いていた西日本の通商経済に対し、東国の「農業経済が全国支配する体制」を確立させたことでもあると思います。
これ以降、江戸時代の末期に至るまで、日本での資産評価は「土地(農地)の所有権・使用権」をもって行われ、税金は基本的に「コメ(年貢)で収めるべきもの」という、一種の「コメ本位制」とでも言うべき国家経済が成立しました。こんな奇妙な経済体制が数百年間も続いた国は、世界でも日本だけですよ。
島国だからそれが続いたのでしょう。