この前、こんなかぐわしい記事を書いた。
この中で、1897年(明治30年)にチベットへ潜入した川口慧海を紹介した。
「明治のインディージョーンズ」と呼ばれる日本人だ。(いま勝手にネーミング)
このとき慧海が閉口したのが排泄行為での文化の違い。
日本人は紙でお尻をふくけど、当時のチベット人は何もしないから。
食器を自分の着物で拭く位の事は平気なもの、卑陋至極ではありますが彼らは大便に行っても決して尻を拭わない。
「チベット旅行記 (河口 慧海)」
今回はこの続きで、トイレ文化をもっと究めようと思う。
お尻を紙でふくという習慣はいつ、どうやって日本人に定着したのか?
これからそれをみていこう。
でもその前に、紙についてぜひ知ってほしい人物がいる。
「蔡倫(さいりん)」という大昔の中国人で高校の世界史でもならう人。
蔡倫
?~121頃
製紙法を改良した後漢の宦官。105年和帝に紙を献上した。
前漢代の遺跡から銅鏡の包装紙が出土しているため、彼は以前から存在した製紙法を改良した人物とされている。「世界史用語集 (山川出版)」
このあと中国の製紙法が日本に伝わった。(7世紀の始めごろ)
もし日本に紙がなかったら?
和歌や物語を記述できないから、いまの日本文学は成立しなかった。
それに日本人の識字率の高さ理由には、早くから製紙法が伝わったことがある。
日本の歴史で紙がはたした役割は本当に大きい。
その元をたどっていくと、蔡倫が大きな影響をあたえていることに気づく。
蔡倫
中国の(たしか上海駅)の公衆トイレ
手紙はレターではなくて、ティッシュ(トイレットペーパー)のこと。
この当時の0.5元は約6円。
紙が作られるようになって、やがて日本人は和紙を考案した。
さらに時代はくだって江戸時代になると、使い古した和紙をもう一度水に溶かして作る(すき返し)「浅草紙」が登場する。
浅草で生産されていたからこの名がある。
再生紙を使っていたなんて、江戸の日本人は超エコ。
もったいない精神にあふれている。
浅草紙の質はかなり悪いけど、その分お手頃の価格だったから、これがいまでいうトイレットペーパーとして使われるようになる。
でもそれは主に都市部にいた人間で、農村には広がらなかった。
ということで、日本人が一般的にお尻を紙でふくようになったのは江戸時代になってからだ。
明治時代には農村にもその文化が浸透していったことで、慧海が「彼らは大便に行っても決して尻を拭わない。」と嘆くことになる。
戦前の物理学者で随筆家でもあった寺田 寅彦(てらだ とらひこ:明治11年 – 昭和10年)はこれをエッセイのタイトルに使っている。
ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ちている。それはまだ新しい、ちっとも汚れていないのであった。
浅草紙
すごく身近なものだったのだろう。
浅草紙が登場するまでは、上のような籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)という木の棒が排泄のあと処理に使われていた。
「くそべら」という直球ストレートの別名もある。
使い方は、まあ想像してほしい。
「江戸時代の文化体験」といっても籌木は誰もがノーサンキューのはず。
日本人はもうトイレットペーパーなしでは生きていけない。
紙は神になったのだ。
でも、日本の紙はまさに神。
高品質で水に溶けるから、そのまま流すことができる。
海外のトイレットペーパーは質が悪くて水に溶けないから、トイレに捨てることもできない。
だから個室の中に小さな箱がある。
夏場のにおいは、まあ想像してほしい。
でもこれは5年ぐらい前の東南アジアや韓国でのことだから、いまはどうだろう。
浅草紙を発明してくれた江戸時代の日本人に感謝だ。
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木ベラもあったのでしょうが、庶民(主に農家)は、横に張った「ワラ縄」を使っていた地方も多かったと思います。使い方は、その縄を跨いでこすりつけていたようですね。(共同で使っていたのか?きったねーな!)
浅草紙が発明されたのは江戸時代なのでしょうが、田舎も含めて日本全国あまねく一般家庭にまで「チリ紙」が普及したのは、おそらく明治になってからのことだと思われます。あるいは戦後のことかも?
浅草紙もちり紙と同じです。
全国的に紙でお尻をふくようになったのは明治ですね。