「日本の文化や歴史に興味がありますっ」という見込みのあるベトナム人がいたから、すこしまえ彼を枯山水のあるお寺に連れて行って感想を聞いたところ、こんなことを言う。
「わたしはこういう庭が大好きです。でもなんで日本のお寺には庭があるんですか?」
10年ほど前に、タイ人からも似たような質問をされた。
いっしょに京都の神社や寺を回っていたとき、エリザベス女王が絶賛したという龍安寺の庭園を見た彼はこんなことを聞く。
「こういう静かで平和的な雰囲気がとても良いです。タイのお寺にはいつも人がたくさんいてうるさいですから。ところで日本のお寺にはよくこういう庭がありますが、どんな目的や意味があるんですか?」
リアルの水を使わずに、石や砂で水の流れや山水(自然)を表現する「枯山水」の庭は室町時代の禅寺で特に発達した。
くわしいことはここを見てくれ。
例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水である。石の表面の模様で水の流れを表現することもある。
枯山水
ベトナム人とタイ人が知りたかったのは、これで何を表現しているのかということの他に、日本のお寺がこうした庭園を持つ意味や目的だった。
ベト・タイの両国にも仏教寺院は山ほどあるけど、参拝者が観賞するような庭なんてないと言う。(小さな庭らしきものがあることもある)
だから日本人が庭を重視したり、お寺が庭を必要とする理由がよく分からないらしい。
逆に言えば、こうした枯山水がないと日本のお寺は何がどう困るのか?
「そんなこと言ったら、人が来なくなって寺の収入が激減するじゃん」という現実的な理由とは別に、寺に庭がある理由はなにか。
日本の仏教と庭園にはどんな関係があるのか。
ということで、お坊さんや仏教を学んでいる人たちが集まるSNS上のグループに、「外国人からこんな質問をされましたが、どう思いますか?」と聞いてみたから、以下、寄せられた答えを紹介しよう。
・暑い日や寒い日、雨や雪が降る日もただ落ち葉を掃き浄め、砂紋を整える。そうしていると心の塵(チリ)も取り除かれ、覚りを開いてシャカの十大弟子の一人になった方がいました。
・石庭の砂は三途の川、その向こうはあの世を表していると聞きました。仏教の世界観を表しているのでしょう。ちなみに京都の石庭で使われる砂は白川の花崗岩らしいです。
・庭のある寺が京都に多くて奈良に少ないのは、禅宗寺刹の関係だと思います。鎌倉には臨済宗と日蓮宗の寺刹が多いのですが、鎌倉五山や有名な臨済宗寺刹を除けば全体的に庭園が少ない印象を受けます。
・若いころに、クソ暑い真っ昼間に草むしりをするよう呼び出され、不満に思いながら草を取っていると、エライお坊さんから「見えなきゃならないものが見えていない」と怒られた。
でさらにイライラしながら作業をしていると、「刈らなきゃならない雑草を見落としている」とまた怒られ……。しまいには、そんなに嫌なら帰れと怒られる。
ただそこまで言われてみて、善行させてもらっているのに、心の中は怒りや不満の悪意に支配されている自分を知って、がく然とした事がありました。
庭の手入れに限らず、生活の一つ一つの動作に感謝を感じるか不足不満を感じるか。それを気づかせるものの一つに庭があるのではないかと思います。
・極楽浄土やそこに至る心の完成度をイメージしやすいようにとか、庭の手入れと心の手入れは同じものだからと教えられましたよ。
・日本の仏教寺院も元々本来は庭を持っていませんでした。
現代見られるお寺の庭は浄土や観音世界や、禅の境地などの「仏教の思想を堂宇との調和で表現したもの」とされています。
仏教寺院に庭園が造られるようになったのは2つの起源があるでしょう。
まずは神道や道教との習合で、神霊(仏霊)が宿るための依り代になる木を公家や武家が庭に植えていて(仙裁という庭園空間)、やがてその風習を寺院が取り入れるようになった。
もう一つは、仏教僧が境内に浄土など仏の世界を表現しようとしたことを庭園の起源とするものです。
仏教寺院の庭園は平安時代に登場し、室町時代以降、臨済宗の寺院で「禅の世界観」を融合した庭園が造られていったと思います。
・京都の寺院には庭園が多くて、奈良は割と少ない感じがします。
京都のお寺には観光目的で行く人が多かったからですかね。
・それについては奈良は「仏教寺院が庭園を造らなかった時代に創建された寺」が多くて、京都は「庭園を造る時代よりも後の時代に創建の寺」が多いということです。
宗旨の面でいうと奈良仏教系の多い奈良に対して、庭園で仏の教えを表現することを重視する臨済宗の寺院が多いのが京都の特徴と言えます。
・禅宗では茶道を重視する宗派もあるようなので、庭造りもふくめてその所作も修行の一環なのでしょう。
禅定だけが修行じゃないと。
・お弟子さんが毎日毎日庭を整えると、そこから弟子の進境が分かります。そして足りない部分をお師匠が問い、弟子に伝えます。
・自分を見つめるためと思います。庭とにらめっこです。
ということで、庭を眺めて楽しむのは参拝者のすることで、その寺にいる僧らにとっては、落ち葉や雑草を取り除いたり、砂を整えたりする庭の手入れも重要な仏教修行のようらしい。
実際、厳しい修行を行うことで知られる永平寺にいたお坊さんもそんなことを言っている。
一般の人は修行というと、滝に打たれるとか火の上を歩くといった苦行を思い浮かべることが多いけど、永平寺の修行にそんなものはほとんどない。
坐禅、読経、食事、掃除、それとそれぞれの寮舎での仕事、そして夜は寝るといった一つ一つの行為すべてが等しく重要な修行になっていて、「生活=修行」というのが禅の大前提という。
何気ない日常生活が、修行そのもの。
こういった禅特有の修行観は、一般の感覚から考えれば特殊なものに感じられるように思う。禅の修行というのは基本的に自分の心を整えることに主眼が置かれており、坐禅などはその方法の1つ。
坐禅が修行なのではなく、心を整えることが修行なのである。
重要なことは「心を整える」ことで、その観点からみれば座禅も庭の手入れもまったく同じ修行になる。
食事、掃除、睡眠なども読経と同じレベルの仏道修行になるという「生活=修行」の発想は、タイやベトナムの仏教ではほとんどないだろう。
だから日本のお寺あるに枯山水の庭を見てもその目的や意義、仏教との関係がよく分からなかった。といっても聞かれたボクもその理由がよく分からず、死んだふりをしようとしたのだが。
おまけ
タイの首都バンコクの街並み
こちらもどうぞ。
日本の寺院に庭がある理由ですが、上に書かれているようなことの他にも、「宗教施設としての使われ方の違い」も関係するんじゃないですかね?
キリスト教にしてもイスラム教にしても、彼らの「教会」は、信者たちをそこへ集めて招き入れ、皆で礼拝したり説教を受けたりするための「公共的集会所」としての使われ方の意味が大きいです。キリスト教のミサとかイスラム教の礼拝は、それが毎日毎週行われる定期イベントなのです。でも日本の寺院はそれとはちょっと違う。もちろん、信者たちが寺へ集合して皆で読経する(礼拝に相当)こともあるでしょう。でもそれは年に何度かの特別な時期に限定された催しにすぎません。
それよりも日本の寺院は、そこで坊さんが「修行したり生活したりする場所」であるという意味の方が強いと思う。したがってそこには当然、彼らのための「プライバシー空間」「私権が及ぶエリア」を示すための境界線(土塀)や、「外敵を防ぐ城壁」が必要とされ、そのエリア(境内)の一部に建物(寺院)が建つという形式になります。いわば「領主の屋敷」みたいなものですね。江戸時代でも寺院は「寺社奉行」の管轄であり、屋敷を有する大名・旗本なんかと同じような扱いを受けていました。
エリア内で建物が建っていない場所は単なる「空地」としておくこともないではない(それは生臭坊主?)でしょうが、そこを草取りしたり、掃除したり、それも修行の一種と考えるくらいだったら、やがては「(主人の嗜好に沿って)枯山水の庭を造って、それを日ごろメンテナンスするのも修行である」という考えに至ることも、あり得るでしょう。
東南アジアなど他国の仏教寺院は、日本に比べると、やはり「集会所」としての役割がより大きいから庭がないのでは?