今回は花火の話なんで、まずはフランスのパリ祭(現地ではバスチーユの日)で披露された花火の様子を見てもらう。
パリ祭(7月14日)の約2週間後、8月1日は日本で「花火の日」。
1789年7月14日にフランス革命が始まったからこの日がパリ祭で、太平洋戦争が終わって3年後の1948(昭和23)年に花火が解禁されたことにちなんで花火の日がつくられた。
つまり、それまで日本で花火は禁止されていたのだ。
その理由は後半に紹介するとして、まずは花火の歴史について書いていこう。
「ひゅるひゅるひゅる~…。ドーンッ!」という現在につづく日本の花火の起源をたどると、16世紀にヨーロッパ人が鉄砲と火薬を持ってきたころに行きつく。
それ以前にも、仕掛けに火をつけて炎が燃える様子を見て楽しむことはあったけど、それは現代の花火とはまったくの別ものだ。
ヨーロッパ人が来たころの日本は戦国時代の終わりごろで、武田信玄・上杉謙信・織田信長などの戦国武将が全国各地で戦いを繰り広げていた。
戦乱の時代に伝わった火薬は鉄砲とセットで武器として、“ヒトゴロシ”の道具として使われる。
火薬を使った観賞用の花火を初めて見た日本人は1589年の伊達政宗とも、1613年の徳川家康とも言われるが、一般的にいわれるのは後者。
イギリス国王ジェームス1世の使者が駿府城を訪れたとき、徳川家康に花火を見せたことから、「初めて花火を見た日本人」としてよく家康があげられる。
そのときの花火は竹筒から火の粉が「ぶわっ~」と噴き出す、いまでいう手筒花火ようなもの。
それを気に入った家康が三河の砲術隊に命じて、手筒花火を作らせたことからいまに続く日本の花火が始まったという。
手筒花火
画像はKiyok
1591年に豊臣秀吉が天下統一を果たし戦国時代は終了する。
そして江戸時代に入って、元和1 (1615) 年の大坂の陣で徳川家康が勝利したことで国内に敵がいなくなり、徳川幕府の長期政権の基盤が固まった。
もう争いのない平和な時代が始まることを広く全国に伝えるため、家康は元号を新しく「元和」とする。
これがいわゆる「元和偃武」(げんなえんぶ)だ。
偃武とは武器を伏せて使わないということで、元和偃武とは戦乱がなくなって世の中が泰平になることをいう。
もっとも島原の乱のような出来事はあったけど、幕府に脅威を与えるような重大な事件はその後、数百年おこらなかった。
そんな平和な時代に銃はいらない子。
それで火薬の使用方法も変わり、花火を打ち上げて人々の目を楽しませるようになる。
1733年に将軍・徳川吉宗が疫病による死者の慰霊と悪病の退散を祈って、隅田川で水神祭を行ったことが現在の隅田川花火大会になったという。
くわしいことはこの記事をどうぞ。
のんびり平和な江戸時代に花火の技術が発展して、現在の日本の花火文化の基礎が築かれていく。
「たーまーやー」、「かーぎーやー」のかけ声が登場したのもこの時代だ。
時代は一気に飛んで昭和になる。
日中戦争が始まったころになると、火薬は娯楽ではなくて人を殺傷する武器のために使われるようになり、花火はだんだんと社会から消えていく。
1937年に隅田川川開きの花火大会が中止となったことで、日本の花火は一度”死んだ”と言っていい。
戦後になると日本を統治した連合軍(連合国軍総司令部:GHQ)が日本人による火薬製造を禁止した。
これはそのまま武器になりかねないから、この措置はまあ仕方ないっす。
でも数年にわたる日本側の強い説得によって、1948年にようやくGHQの許可を得て、中断していたあの花火大会が開催された。
両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった。
ということで花火の歴史をざっと眺めると、戦国時代には武器として使われた火薬が江戸時代には花火になり、昭和の戦争時代になると消滅し、太平洋戦争が終結するとまたこの娯楽が復活した。
戦乱がなくなって安定した時代になると、日本で花火が打ち上げられるからこれはまさに平和の象徴だ。
こちらの記事もいかがですか?
> これがいわゆる「元和偃武」(げんぶえんな)だ。
?
「げんなえんぶ」または「げんわえんぶ」の間違いですね。
「げんぶ(玄武)」の方が単語としてはよりポピュラーでしょうが、これとは関係ありません。
その通りです。
いま修正しました。
ご指摘ありがとうございました。