クリスマスが明けたきのう12月26日、ある中国人さんがこんなお祝いのメッセージをSNSに投稿してた。
「国父 毛沢東さま
御誕生日おめでとうございます。」
そうか。
宗教を否定した共産主義者の毛沢東とイエス=キリストでは、銀河系レベルの価値観の違いがあっても、誕生日は1日違いだったのか。
(ただしイエスが12月25日に生まれたという根拠は不明。)
まえに香港人と一緒に京都旅行をしていたとき、彼女がこの文字を見て、不思議の世界に迷い込んでしまった。
この石碑の前で立ち止まり、「洛陽って…、中国にそんな都市がありますけど、それとこれは関係あるんですか?」と首をひねるその香港人には、京都と洛陽のつながりがまったく分からない。
古代の日本人は隋や唐を「師」のように考えていて、当時の航海技術では命がけで優秀な人材を中国へ派遣し、イロイロなことを学ばせて日本の社会や文化を発展させてきた。
そんなことから日本では京都を中国の古都に見立てて、「洛陽」と呼ぶことがあった。
でも、そんな背景を知らない中華圏の人がこの漢字を見たら、「どういうことですか?」となるのは仕方ない。
日本人が中国に敬意やあこがれを持っていたのは遠い昔の話で、いまの見方はむしろその反対に近い。
中国人もそんな空気を感じ取っているらしく、中国メディアの捜狐がこんな内容の記事を載せた。
サーチナ(2018-03-13)
日本人はなぜ古代の中国人は尊敬しても、現代の中国人を尊敬しないのか=中国メディア
このメディアは、中国人に対する日本人の見方の分岐点を10~13世紀の「宋」と考えて、日本人は宋から前の中国人には敬意はあっても、それ以後の中国人にリスペクトはないと指摘。
ただ中国の視点でも、宋の前後で中国人は大きく変わっている。
2000年以上前の春秋時代の中国人は生気に満ちて品格もあったし、漢や唐の中国人は自信にあふれ、優雅さもあったという。
具体的には、春秋時代には孔子のようなすぐれた思想家が生まれ、唐や宋の時代には文学や芸術が発展した。
でも宋より後、明や清の時代の中国人は創造力に欠け、さらに“惰弱”だったことから、「まったく同じ民族とは思えないほど違っているのは事実である」と記事にある。
それまで中国人が積み上げてきたものが、明や清になってから崩壊したという。
そんなことから、
「同じ炭素からなる物質であってもダイヤモンドと黒鉛がまったく異なるように、同じ中国人であっても、古代の中国人と現代の中国人はまったく別物」
と主張し、いまの日本人が古代の中国人は尊敬できても、現代の中国人には背を向けることには、それなりの道理があると捜狐は結論づけた。
これに日本のネット民の声は?
・逆に聞くが、どこを尊敬すればいいんだ?
・尊敬できる人がいれば今でも尊敬するんだがな
・中国は古いものを大切にしないで文化大革命などと すべてを燃やしてしまった
・尊敬は金で買えませんから
・西遊記や三国志が共産主義だったら尊敬しない。
個人的には、明・清時代に中国人が”ダメになった”という指摘はピンとこない。
でも、いまの日本には共産主義という政治思想や社会制度の違いに、強い拒否感を感じる人が多いことは十分理解できる。
「国父 毛沢東さま 御誕生日おめでとうございます。」という国民のメッセージを見たら、「いやそれはチョット…」と引いてしまう日本人はたくさんいると思われ。
日本でも昭和の時代には、左派の人たちが毛沢東を神のように崇拝していて、なかには「毛沢東のいる中国には泥棒とハエがいない」と言う人もいたと本で読んだことがある。
共産主義のボスだった旧ソ連が崩壊したことで、盲目的崇拝から覚めた人もいただろうし、100年以上前にいかなくても、直近のここ30年ぐらいのようすを見て「中国にはガッカリだよ」と感じた日本人は多いはず。
でも、中国が経済的には大事なパートナーであることは確かだ。
だから京都に行って「洛陽」の文字を見たら、ご先祖さまの中国に対する気持ちを想像してみよう。
> 日本人はなぜ古代の中国人は尊敬しても、現代の中国人を尊敬しないのか
ははは、そんなの当たり前。
昔の日本人にとって、世界とは「三国」、つまり唐土(=中国)、天竺(=インド)、本朝(=日本)の3ヶ国が全てだったのですから。このうち天竺は遥か彼方の西方極楽にも近く、かろうじて生の情報を入手できたのは、大陸中国という先進国だけだったのです。
その後は、元と朝鮮からの侵攻を跳ね返すことができて以降、明の時代になってようやく足利幕府など日本側政権との交易が回復したのです。でもそれで、何か価値のあるものが明国から日本へもたらされましたかね? 価値あるものと言えば銅銭くらいじゃないですか?