2月に起きた歴史的な事件というと、日本ではなんつっても、1936(昭和11)年2月26日に青年将校が起こしたクーデターの二・二六事件が有名だ。
でも台湾では、その20年後に起きた「ニ・ニハ事件」が知られている。
これは知り合いの台湾人から聞いた話。
彼女には子どものころ、同じ学校で家も近くて自然と仲良くなった友達がいた。
ある日、いつものようにその子と遊んでから自宅へ戻ると、おばあちゃんから「もうあの家の子と遊んではいけません。話すのもダメです。」と言われた。
その原因は、日本人を含め多くの台湾人が虐殺されたニ・ニハ事件にある。
1945年に日本がアメリカに降伏したあと、台湾の新しい支配者として中国本土から中国国民党政権の中国人がやって来た。
それまで台湾にいて日本の統治を受けていた人を本省人、1945年の前後に中国から来た人を外省人という。
もともと台湾は中国(清)に属していて、1895年に日清戦争で日本が勝利してから日本領となった。
だから台湾の「祖国復帰」を歓迎する本省人は多くいたものの、中国から来た国民党政府の官僚や軍人らの汚職のひどさに驚きあきれ、大きな失望へと変わった。
外省人が強姦・強盗・殺人の重大犯罪を犯しても、正当な処罰を受けないこともしばしばあって、本省人の不満は高まっていく。
本土出身の中国人による政治もダメダメで、物価は高騰し、インフレによって企業がバタバタと倒産していき、職を失う人が続出する。
外省人の知識や文化レベルは低くて、蛇口を見たこともなかった人が多くいて、蛇口をそこらの壁に付ければ水が出てくるとホンキで考えたほど。
こうなると、誰もが自然と日本統治時代といまを比較するようになる。
厳しい政策があったとしても、あの時代には現在のような不正は少なかったし、大学がつくられたりインフラが整備されて台湾は近代化していき、人々の生活は豊かだった。
それで当時の台湾人は「犬去りて、豚来たる」という。
*「犬(日本人)が去ったら、今度は豚(中国人)が来た」の意味。
犬(日本人)はうるさくても番犬の役に立つけど、豚〔中国人〕は貪欲にむさぼり食うだけで、何の役に立たないということ。
また、現政府の失政による治安や経済の悪化、役人の腐敗などを見て、日本時代をなつかしく思い、「日本人はいつ帰ってきてくれるのか」と呼びかける「何日君再来」という歌が歌われるようになる。
外省人に対する内省人の不満や怒りは高まっていき、ちょっとした火種があれば爆発する状態は出来上がっていた。
中国の台湾(Formosa)での搾取は日本よりひどい、と伝える海外メディア。
「Japs」って言うな。
事件は1947年2月27日に起きた。
この日、台北市で私的にタバコを売っていた女性を官憲が見つけ、銃で殴りつけたうえに商品と所持金を没収する。
するとこれに怒って多くの人が集まると、官憲は民衆に発砲し、まったく関係ない台湾人が殺害された。
翌日28日、本省人と外省人との間で本格的な争いがぼっ発し、政権側はデモ隊を機関銃でなぎ倒すなどして、多くの市民(本省人)を殺害した。
本省人も外省人も同じ中国人だから、外見でどちらかを判断するのはむずかしい。
そこで本省人は、本省人なら誰もが知ってる「君が代」を合言葉として、それを歌えない人間は外省人として排除していく。
本省人のグループはラジオ放送局を占拠すると、日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と台湾全土に呼びかけると、これまで外省人の横暴にガマンを重ねてきた民衆が各地で立ち上がり、官庁や警察を占拠し、外省人を見つけては殴りつける。
このとき飛行機で東京まで行って、GHQの占領下の日本に組み入れてもらおうと、マッカーサーに頼み込もうとする動きまであった。
でも、政権側が軍隊を動員して鎮圧に乗り出すと、今度は外省人のターン。
日本時代に教育を受けた裁判官・医師・役人など本省人のエリートが次々と逮捕され、拷問を受けてその多くが殺された。
弾圧は過酷で一般人にも容赦はない。
街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。
弾圧される本省人の人たち
1947年に起きた二・二八事件は、外省人と本省人との間に深刻な分断を生み、そのあと長い間、台湾に住む人たちのトラウマになった。
外省人の子どもについて、「もうあの家の子と遊んではいけません。」と言った本省人のおばあさんには、この弾圧・虐殺事件について辛い記憶があったのだろう。
悪夢のような二・二八事件は、結果的には日本統治の評価を高めることになり、台湾人が親日的になる要因のひとつとなる。
台湾人がアニメを見て感じた「日本と台湾の学校との違い」とは?
コメントを残す